2019年10月4日金曜日

自室の模様替えの案

PCと低デスクをゴミ袋の位置に移動して襖側に向ける(前:自室中央で押入れ側に移動する)こと
利点
・「異常事態=ふすまの向こうの人たちが自室のふすまを開けるなどの行為」を察知しやすい
・「異常事態=外から車が衝突するなどの危険」の際に回避する対策
・「異常事態=冷房時水気・水滴の零落・飛散」からPC 電化製品や紙製品を避難させる
・衛生的に疑問の残るエアコンの風を直に受けない

欠点と→解決法
・二方向の障子はいずれも開放時に、外から自室内でPCに向き合う私の姿が見えやすくなる
・折りたたまれ状態の敷布団の置き場所は、現状以外だと用途ごとに問題が伴いやすくなる
・屋内の他人の生活音が私に届きやすくなる(特に声やTV音声)
・私の所持する冷蔵庫とPCは、同じ接続口(コンセント、プラグの差し込み口、プラグソケット plug socket)に挿入されて稼働すると定格電圧・電流を超えるかも・ショートの危険があるかもしれない
→・冷蔵庫を他の接続口のある場所に移動してそこで稼働させればよい

この移動に伴う具体的な案(他の家具などの処置を含む)
・折りたたまれ状態の敷布団は同じ置き場所で90度回転にする・エアコンの直下にゴミ袋など(ただし靴箱は元のまま)を置く・エアコンの直下にカラーボックスを置いてテーブルクロス様の布orビニール製のものを敷く
・絵の練習の紙や段ボール箱は他の場所(保留の案)に置く



冷蔵庫をエアコン側に移動すること
利点
・ふすまやドア側で自身の通行が便利になる

欠点と→解決法
・既に定位置で稼働した範囲の絨毯・畳を汚している (cf. メモ2018-10-01) ので、この他の場所を汚す危険性を生む
・「異常事態=ふすまやドア側で他人の通行」が便利になる

この移動に伴う具体的な案(他の家具などの処置を含む)
n/a






起草日: 20190731

上記の日になってから、その数ヶ月に思われた案をまとめたという経緯になる。
当記事のパーマリンクのうち"abcding"は部屋の模様替え・リフォーム (wasei-eigo: reform, reformation) ・再配置について"room remodel, remodeling, renovation, transformation, makeover"などと不統一な英語が色々と存在したために選びかねたための指定である。
ええ、そうしようと思ったが"remodeling"でよい。

上記の日以後で実行したものを以下に記す。

携帯電話内蔵カメラ写真 (201909191649)▽
↑の画像に対応するPC内蔵Webカメラでの写真 (WIN_20190919_16_46_33)▽

2019年9月19日の日記メモから引用:
14時50分前から「自室の模様替えの案」のための整理整頓・清掃を始めた。試験的に、いくつかの物の配置を変更した。(中略)16時30分ころに一段落ついた(一段落がついたor一段落をつけた)。その写真を撮ることが後にされて、写真の枚数がPC内蔵カメラでの1点と携帯電話内蔵カメラでの2点になる。17時50分ころから、少し物の配置を変更する作業をした。「或る方角の窓」の正面右手側に置かれていた大きめの段ボール箱1つ(本年7月30日メモに写真あり)を持ち上げようとする際、糸の細めな蜘蛛・くも・クモの巣に触れる感覚があった。主は、例の通り全長5mm未満の子グモである。彼を捕まえる衝撃で彼が潰れた。巣の方はしばらく放置してみる。

具体的に、「PCと低デスクをゴミ袋の位置に移動して襖側に向けること」の内容が、その日に実現された。
もしかすると、段階的に「冷蔵庫をエアコン側に移動すること」の実現と、従来の案である「PCと低デスクを自室中央で押入れ側に移動すること」の復活とがありえるが、当面、この状態のまま過ごす。
2019年9月30日時点で大した問題を感じない。
当初は料理の際の不手際が生じやすくなるなど「慣れない」ことに起因する現象を懸念し、注意しながら行っていた。
現時点で解決の手段の実現性が無い問題は、実害が軽度であるが、晴れた日の昼間の外の光の強さにPCディスプレイの光の強さが負ける点である。
「①その時に雨戸=シャッターを閉ざす、②その時にPCディスプレイの光の強さ・高度・明度を強める、③その時にPCを用いずに過ごす、④その時までに寝る」のいずれかを行うことは、実現性が無い(i.e. デメリットが付随する点で行いたくない)解決手段である。

2019年9月10日火曜日

言語でノンバイナリー表現を用いる動き(ジェンダーフリー、ジェンダーレス、ジェンダーニュートラル)

表題について、まず私の先行研究を示す。
以下に2019年3月5日投稿記事『英語で混在しつつある西洋式と東洋式の語順 (同格表現に関するもの)』からの引用をするが、それは※印での注釈に留まっている。

ヨーロッパ現代語では、ラテン語の格変化"case inflection"と性数格一致"agreement, concord"に相当する文法機能が1000年以上前から失われている場合が多い。
古典ラテン語・古代ギリシャ語(アッティカ方言~コイネー)・梵語(ヴェーダ・サンスクリット・パーリ語を含む)には6~8の格変化があったし、現代語であってもスラヴ語派・一部ゲルマン語派にも5以上(非印欧語のフィンランド語・ハンガリー語・バスク語は10以上)の格変化を持つ言語があるが、英語やロマンス諸語は代名詞にのみ5個以下の格変化があり(例外でロマンス諸語のルーマニア語は名詞にもある)、ドイツ語は代名詞と定冠詞の格変化があるのみである。
その点は注意すべきである。

※性"gender (いわゆるジェンダー。梵語・古代インド言語学ではリンガ liṅgaという)"についても現代の英語は中途半端にヨーロッパ古典語の特徴を残している。著名な例として職業名につくような"-man" (梵語manuなどインド・ヨーロッパ言語における同根語はみな男性名詞)という接尾辞は絶対的に男性名詞を作るといい、「女性にもそう呼べば女性差別になる」とか「女性なら"-woman"を使うべきだ」という話が社会的にある。"-man"は漢字文化圏からすれば「人"human being (ラテン語由来のhumanはhomo, 地上の生命"earthling"という原義であって英語man ドイツ語Mann 梵語manuと関係が無い語源の言葉であることに注意。とはいえこれらは古典語で男性名詞である。中性は無生物などになりがち)"」ほどの意味でしかなく、「男」とか「女」という性別それ自体に関わる意味で取られようも無い。顔・声などが認知されないながらに文面から実在すると推定された人物についても"he, she, it"のような三人称代名詞は使えないならば、苦肉の策で"that person"のような熟語か、"neutral he"を用いるくらいしかない。これは言語における社会科学の側面で考えられる課題の一つとなる。日本語や中国語はジェンダーレスな言語"genderless languages"である。英語をはじめとしたヨーロッパ現代語には今でもそのような文法の性の男女別異があるため、"gender-neutral language"という立場で表現を中性的にする努力もある。しかし、無生物の単語である「海」を意味するラテン語mareは中性、その子孫イタリア語il mareは男性、フランス語la merは女性であるような特徴が、英語には無い。そもそも英語にはラテン語のような形容詞の男女性変化が無いのだから、職業名のための男女名詞区別はナンセンスである。「"-man"が指すものは男だけだ」という固定観念を捨てて潔くジェンダーレスに切り替わればよいが、日本人の言語感覚では量り難いほどに文法の性の男女別異の根が深いようだ。言語の性差も、日本語や中国語のような必要最低限の程度に、いずれは減らされて東洋式になるかもしれない。

当該記事からの引用は以上である。
繰り返しになるが、※印での注釈は原文のうちにある。



表題の通り、ノンバイナリー表現を中心に考察する。
ノンバイナリーとは、英語で"non-binary"(alt. ノンバイナリ) と記し、二極でないこと(梵語advaya, advaita は不二一如系になるがここでは多極を標榜するかもしれない)を意味する。
ジェンダー観・ジェンダー論のうちでも性的少数者に関する分野で用いるので、性別の位置づけとして一般に言われる。
日本では「Xジェンダー」と呼ばれる。
数学やIT関係では「バイナリ binary」という言葉が「0, 1 の二進法」の名詞として知られるが、原義的には「2つから成る or 2つのものを含む binarius」という形容詞であり、「バイ・ビ bi」は2つについての事柄を指す形態 (morph) であり、二極・両極端でもある。
「性別の二極でないこと」を換言すれば、男女の二分法に拘束されない性別である。
人によっては、生物の本能に依存した性別の生理的作用をゼロに帰するような立場であろう。

表題には括弧(カッコ)でジェンダーフリー"gender-free"、ジェンダーレス"genderless"、ジェンダーニュートラル"gender-neutral"と併記されるが、記事注ではノンバイナリーとジェンダーニュートラルの2つを基本的に用いる。
抽象名詞に"gender neutrality (性の中立性)"もある。
言語・現代語において、そのような「動き・運動"movement"」があることについて考察する。

人称代名詞 (personal pronoun) の彼・彼女・それ (英語: he, she, it) は、言語における文法的な性 (grammatical gender 以下"文法性") での男性・女性・中性 (masculine, feminine, neuter) になる。
ノンバイナリーおよび性別不明の生命の個体のための専門的な人称代名詞は、英語に無いとされる。
文法性がある言語で、性別の不明な生命の個体を指したい場合、慣習的には男性の語形を用いる例が多かろう。
自然言語には慣習的な特徴が尊重されるべきであるとすれば、急進的に英語でノンバイナリー表現を普及するには困難さが伴う。
現状は、性の無い複数形の人称代名詞である"they"を単数形で用いることが一般的である。
この用法の"they"は、近代英語初期の英訳聖書であるKJV (King James Version, 欽定訳) にも見られる。

Then shalt thou bring forth that man or that woman, which have committed that wicked thing, unto thy gates, (even) that man or that woman, and shalt stone them with stones, till they die. - Deuteronomy 17:5 (旧約聖書・タナハのうち律法・トーラーにある申命記17:5), KJV

※"they die"はそのまま複数形の方に見える。もし3人称の単数形ならば数の一致で"they dies"になるはず。2人称の代名詞 you が複数形由来であることと同様かもしれない。いちおう単数形 they = singular they は主格・主語である場合に述語の動詞が複数形の語形であることは一般的であると一ページに示されるた例文から判断できる。上記引用について、KJV以前からある中英語ウィクリフ訳 Wycliffe (1384, 1394) では、KJVの"that man or that woman"が"þe man and womman (the man and the womman)"として数量的に複数で取れる名詞句を形成しており、その上で"þei ſhulen be þrowen doun (thei schulen be oppressid with stoonus)"と they にあたる人称代名詞を用いる。あまり関係ないが同じ文のヘブライ語では"and"か"or"かというと、"or (either)"の意味に取れる語句 א֖וֹ が使われる。KJVでの他の例に"If an ox gore a man or a woman, that they die: then the ox shall be surely stoned... - Exodus 21:28 (Wycliffe 1384: If an oxe wiþ þe horn ſmyte a man, or a womman, and þei weren deed... ;die が他動詞「死なす」の意味を含んだ時代に"weren deed"で受動構文にしたか)"がある。

当記事では、人工言語であるエスペラント(エスペラント語)でどうか、見てみよう。
あらゆる個別言語において最も特筆すべき動向・議論があろう。



エスペラントは元々、3人称・単数の人称代名詞の語形のみ、文法的な性によると思しき語形変化=屈折 (inflection, alt. 曲用 declension) を起こす。
すなわち、li (彼 he), ŝi (彼女 she) のみである。
人称代名詞・指示代名詞の語末には、mi, vi, ni, ĝi など規範的に - iが語尾として伴う(cf. 疑問詞・不変化詞 ĉu; 英語やラテン語に同じ用法の無い不変化詞でポーランド語czyから来る, 疑問代名詞=関係代名詞 kiu; 文法的に意味を有する接尾辞-uが付く, ほかwikt. Category: Esperanto pronouns)。
物理的な性別が言語の指示対象にあって名詞が有すると推測される性は、自然の性・自然性 (natural gender) である、との定義もある。

li, ŝi の2つに、その対格 (accusative case) の語形もある。
ラテン語などと違って対格の標識 (marker) である形態は語尾の -n のみである。
単純に実在の事物における性の区別が必要という観点で、鶏のオスとメス(雄鶏・雌鶏)を koko, kokino (接尾辞 -ino で女性の意味を付与) として・父と母を patro, patrino (両親を意味する場合にgepatrojで複数形のみを用いる)として区別するようなことが、この人称代名詞にも反映されたに過ぎないと考えることもできる。

エスペラントの冠詞は定冠詞 (definite article) である la の一つのみである。
英語と違って不定冠詞 (indefinite article) は無い(数詞 unu = 1 を代用する者もいる)。
参考までに、フランス語には冠詞・名詞・形容詞にいずれも文法性や文法数 (grammatical number) があり、それらの一致 (agreement alt. 呼応) があるが、名詞と形容詞には中途半端に思える文法性・数の無い例もある。
性の無い形容詞や名詞を単数形で用いる際には、冠詞が男女区別の話し手の手段・聞き手の判断基準となる。
フランス語のその例に"un enfant espiègle"(「やんちゃな男児」を意味して定冠詞unのみが男性形) と"une enfant espiègle"(「やんちゃな女児」を意味して定冠詞uneのみが女性形) がある。
定冠詞の複数形は文法性で語形が変化しないので、名詞・形容詞に異なった語形がある場合は、それが男女区別の話し手の手段・聞き手の判断基準となる。
フランス語のその例に"les adultes français"(「フランスの成人男性たち」を意味して形容詞françaisのみが男性形) と"les adultes françaises"(「フランスの成人女性たち」を意味して定冠詞françaisesのみが女性形) がある。

要するに、エスペラントには性の一致にあたる文法的な機能が、ラテン語やフランス語と違い、存在しないことになる。
3人称・単数の人称代名詞は適宜に照応 (endophora) で用いられれば、それが日本語にもあるような文法的な機能と少し異なる性の一致になるかもしれない。
それでさえも、性別不明の生命の個体を指す場合・秘匿したい場合・性的少数者(性的マイノリティ)への配慮が必要である場合などのため、ノンバイナリー表現を模索する人々は多い。



ノンバイナリー3人称・単数の人称代名詞のためには、何があるか?
ri が、現状で最も一般的である。
これは新語"neologism"である。
性別不明の生命の個体に用いられることが更に一般的である。
ri の使用は Riism, riismo と呼ばれる。
この一種で、両親を意味する gepatroj という複数形のみの言葉の単数形を設けて gepatro と言ええば、ノンバイナリー(ジェンダーフリー・ジェンダーレス)の立場にある親を意味する。
性別が不明または任意の親である人物を指して"unu gepatro"と言ったりする。

なお、ri を用いるなどを基本としてエスペラントから性差を無くする修正・改革 (reformo) としては La riisma Esperanto があって riismo と別に扱われる。
これには基本の語形に女性の形態が別に用意されるものを、男女別で専用の形態を用いることで語形が基本的にニュートラルであることを示す手段も含まれている。
それは iĉismo と呼ばれ、先の雄鶏・雌鶏は、性別不明の個体が koko であって雄鶏・雌鶏は専用の接尾辞 -iĉo, -ino (表記として -iĉ-, -in- も見られる) を用いて kokiĉo, kokino となる。
ことさらに女か男か(雌雄、メス・オス;畜産の人・酪農家などにとって実用的)を示したい場合の手段が用意された修正案である。

li は男性以外にジェンダーニュートラルの用法が伝統的に有ったともいう。
これは epicinity, male-as-norm のようでもある。
英語版Wiktionary - liでその単語に対する注記"Usage notes"として、「厳密にノンバイナリー(男でも女でもない)である人に排他的すぎる (too exclusive) と批判されることもある」ともいう。
一般的にこの用法は推奨されない。

※ epicinity かどうか不明だが、古典ラテン語には名詞に限って common gender (コモンジェンダー・通性) があるという。冒頭に引用した文に「原則的に生命・生物はインド・ヨーロッパ古典語で男性名詞である。中性では無生物などになるため」と注釈した時の言葉 homo もこの例に当たるとして何らかの辞書に定義がある。何らかの文法書は civis (市民), sacerdos (祭司・巫女), parens (親) などを挙げる。これらが男性・女性の実在人物のいずれにも同じ語形で用いられて形容詞との性一致もあるという。新語としてのエスペラント単語 gepatro を待たずにラテン語でこのような例もあることになる。

li, ŝi を合わせて ŝli (ŝi/li の縮約"contraction"ともいう) とする、ジェンダーニュートラルな表現が作られている。
これは新語"neologism"である。
英語版Wiktionary - ŝliでその単語に対する注記"Usage notes"として、「厳密にノンバイナリー(男でも女でもない)である人に排他的すぎる (too exclusive) と批判されることもある」ともいう。
一般的にこの単語は推奨されない。

tiu (その人・あの人 that person, that one) は本来の用法から拡張してジェンダーニュートラル、ノンバイナリー表現というよりも両性的"epicene"(エピシーン、エピスィーン。抽象名詞は epicinity エピシニティ。両性的 androgynous, androgyny と異なる。男性の欠如) である表現に用いるとされる。
ただし、これは代名詞よりも限定詞 (determiner alt. 指示語・指示詞) や指示代名詞 (demonstrative pronoun) として"tiu homo"(その人・その人物・そいつ)というような用途が主要かもしれない。
これも恐らく、専用の単語でない(代替表現らしい)点で、不満足な層がいる様子である。

ĝi (それ・あれ it)は本来の意味から拡張してジェンダーニュートラル、ノンバイナリー表現というよりも"epicene"である表現に用いるとされる。
それで英語版Wikipedia - Gender reform in Esperanto に「1901年の La Revuo 23号にエスペラントの創始者であるザメンホフが性別の不明な個人のために使うことが可能であるという規定がある(筆者が検証すると1901年にLa Revuoという雑誌が存在していない様子。いくつかのサイトを見て1907年として原文を引用する例を見た)」と記され、L. L. ザメンホフさんが実際に用いた文例が子供を対象とする場合にのみあるとする。
挙げられる文は"La infano ploras, ĉar ĝi volas manĝi"(意味は「子供La infanoが泣いている、その子供ĝiは食べる行為をしたいので」という前方照応) である(典拠はL. L. Zamenhof 1893 "Ekzercaro de la lingvo internacia Esperanto"という)。
"infano"は先のフランス語"enfant"と同じ語源を有する言葉であり、伝統的な文法用語としての"epicene"であると言いたいかもしれない。
英語版Wiktionary - epicene の英単語説明の sense 2 としてその仏単語が例示される。
元のラテン語の infans は辞書の定義に英語の"infant"を挙げ、それがまた辞書の定義に「6か月から2歳程度の子供」とするならば、それほど分詞 fans の元の動詞の意味の「話す」ことが否定辞(欠性辞)-in としてできない年齢の子供であって服装や髪型の外見に性別が特徴づけられない場合、日常生活では性器を直に見ないで実在するその個体の性が判断できない。
なので、古典ラテン語からして分詞 fans が男女で性の形態の無い(これはラテン語文法で男女が共通の語形を有するものと扱う)ために否定辞 -in と合わせて、話すことができない(会話が成り立ちづらい)年齢の子供の一般名詞に用いられたろう。
L. L. ザメンホフさんはこの語源を知っても知らなくても、性別不明の子供"La infano"に対する前方照応 (anaphora) に、"epicene"の代名詞として"ĝi"を用いたという旨が当該Wikipedia記事に記された。
同じく当該Wikipedia記事 (oldid=911895413) に「ĝi が人間に用いられないとする考えは英語ゆずり。他の言語には人称代名詞の中性が人間でも用いられる。 e.g. トルコ語 o, フィンランド語 hän そもそもウラル語族やトゥルク語族は3人称の代名詞に性差が無い」とも記される。

L. L. ザメンホフさんが活動していた時代には、当然、言語とジェンダー観のうちの性的少数者に関する議論がほぼ無い。
ただし、冒頭に過去記事を引用するうちに記されたような近代的なヨーロッパ言語は文法性による語形の区別が古典ラテン語など古語よりも少ない、と多くの言語学者が気づいていたろう。
そこからエスペラント(当初に国際語"Lingvo Internacia"という公称がある)をザメンホフさんは構築した、と私は考える。
既述の通り、3人称・単数の人称代名詞にのみ性の語形変化を起こして li, ŝi の2つ(およびその対格 accusative)のみを得る。
文法性による語形の区別が少ない場合は、表現の能力が低くなるので、少ないくらいならば文法性を無くする方が都合のいい結果も得られると考えられる。
その点でフランス語よりも英語が理想に近いモデルとなる。
エスペラントでは意図的に文法性に関して英語らしくしつつ、職業名につくような"-man, -woman"の対立的な形態は用いないようにしたと私は考える。
件の人称代名詞 li, ŝi の2つ以外に、-ino を付けて女性・メスであることを強調するのみで、エスペラントには文法的な性が皆無と思う。
文法性がある言語で、性別の不明な生命の個体を指したい場合、慣習的には男性の語形を用いる例が多かろう。
フランス語の形容詞に男女の語形が異ならない単語も、多くは男性が原型であったかもしれない。

※当記事の後記を参照。イタリア語・スペイン語の話がある。ロマンス諸語のフランス語もイタリア語もスペイン語も男女の語形が異ならない形容詞が、ラテン語でもそうである場合が多いこと (e.g. 3言語 grande, forte に対するラテン語 grandis, fortis) は、少なくともラテン語がロマンス諸語の3言語と同じ傾向を示していたことになる。梵語(サンスクリットおよびパーリ語 Sanskrit and Pali)では基本的に形容詞・分詞が3つの性別 (m. f. n.) を有する (e.g. sa. nava नव の主格 m. navaḥ, f. navā, n. navam; pa. mahant の主格 m. mahanto, f. mahantī, n. mahantaṃ 用例)。



単語例が多く示されているが、エスペラントでノンバイナリー表現のためには、ri が、現状で最も一般的である。
これが唯一、ノンバイナリー表現たりえる専用の表現・単語であることが大きな理由かと思う。
英語で、そういう新語や造語は、伝統や慣習からして定着しない(する場合は一部のコミュニティにおけるスラング slang の一種)。
どの程度に普及しているかは、特に説明しないでおく。
ノンバイナリー表現の将来性についても、私から意見を述べるものでない。
ただし、自然言語でも、過去から現在までを類推すれば、途中の時代まで自然に弱まってきた事実は既に説明されている。
近代から言語のリテラシーが教育の拡充によって高まっているので、自然に変容することは考えづらいが、変容する場合は、言語・文法における性を認知する人々による運動のような「人為的な力」が加わる結果かもしれない。
社会などのことは現在の未知の事柄はもちろん、1年後・10年後・50年後などそれぞれが未知数だし、これを無理強いに量りたいと私は思わない。
民衆からの変革は急進的な成功が困難であること(特に日本国内規模でそう)のみが考えられる。






起草日: 20190909

社会言語学のうちの語彙など簡単な話題について、詳細に説明を行った。
語彙に関して、現代の言語は大きめの拡張性を持つ。
大概は言語を用いる側が、外的要因に受け身である結果に過ぎないが、当記事では運動にも似た能動的な例を挙げている。
既述の通り、自然言語の各言語やそのうちで最も高い国際的地位を得ている英語よりも、人工言語の一種であるエスペラントは、柔軟かもしれない。
最初の提唱者・創始者というザメンホフさん以来の形式は、ある程度に守られても、エスペランティストのパンク的な精神の側面では、変えたい意思で変えようとすることもあろう。
それが旧時代の否定か、新時代のための要請か、その演出かは不明である。


当記事の起草までの2か月間には、本家ブログにおける絵に関する記事の編集・画像制作などで大いに時間が過ぎた。
今時に行うべき言語関連の話題は無いと思っていたが、9月5日からエスペラントについて少し調査を始め、過去記事に僅かな関連のある話題が見つかったので、このために起草した。
起草日での先の時間に、某所で似たような文の投稿をしていた。
一応それと当記事は、同じ私による投稿である。

ジェンダー関連の話題は本家ブログ2019-08-19記事にも2度記されている。
1度は社会に関する説明(主に男女平等・フェミニズム・LGBT, LGBTQ関連)で、もう1度は言語(近代英語での性一致型の照応)に関する注釈であった。
私の絵と絵画・美術の行為には、大概、社会の話題が直接含まれる余地が無いスタンスであるが、そこではそのように説明するという趣向がある。



古典ラテン語などにおける文法性の区別を、私は割と好むが、情報技術に依存して創作・学習するからこそ、私は煩瑣に思われそうな語形変化の事柄に精神的な余裕を保つ。
古典ラテン語よりはイタリア語がもっとシンプルである。
いずれにも、好ましく感じることは、後舌母音による語形 -o, -us が男性であることを象徴してキャラクタリスティックであることである。
インド系言語のうち、パーリ語も文中で主格の時の一般名詞男性形が -o(長母音かつ音声学的な母音の特徴はheightが低め=広め *ɔ かもしれない)であってサンスクリット語の -aḥ からの派生という点で、イタリア語・ラテン語に比較する。
パーリ語で一般名詞女性形は -ā が多く(他の例は割愛)、イタリア語・ラテン語で -a に比較する。

しかし、イタリア語であっても -a が固有名詞 Andrea (アンドレア 由来: Ἀνδρέᾱς Andreas アンドレアス) , Luca (ルカ 由来: Λουκᾶς Lucas ルカス) のように男性形である場合もある。
ラテン語では古代ローマの著者 Seneca(セネカ 位置づけはコグノーメン)も男性名詞で扱われる。
反対に、ラテン語には Venus (女神ビーナス、ヴィーナス、ウェヌス), pinus (松などの樹・植物"pine tree"、生物学ではマツ科"Pinaceae"のマツ属 Pinus) など -us が女性形として扱われる名詞もある。
スペイン語の Venus は惑星を指す場合に男性(ラテン語と比べて他のロマンス語と同じく中性が無い言語なのでノンバイナリー?)であると思う。
例文として"Venus es el segundo planeta del sistema solar en orden de distancia desde el Sol"(スペイン語ウィキペディア - Venusより) を見出すも、どうにも planeta がスペイン語の男性名詞(ラテン語・古代ギリシャ語も同じ)であるから、その前の定冠詞と形容詞(序数 ordinal number)が男性形を取ったに過ぎないようである。
私自身が彼ら言語を近いと思っても、夜空の星々のことではないが、遠い部分があるっぽい。

既存の文例を探す困難さが伴うならば、「Google翻訳」で訳文の例を求める手段もある。
金星と水星と地球を序数の形容詞で求めて平叙文を作ると"Venus es el segundo."(原文:金星は2番目である。), "Mercurio es el primero."(原文:水星は1番目である。), "La tierra es tercera."(原文:地球は3番目である。;定冠詞la含まれず。「太陽系で」と付け加えてLa tierra es la tercera en el sistema solar.という) として男性形の定冠詞や形容詞で訳文が返答された。
参考までに人称代名詞で作ると"El es el segundo.", "Ella es la segunda."として男女性の区別が確認できる。
ただし、Google翻訳は日本語→スペイン語で翻訳するために用いる際、内部で英語を介しているので、女神ビーナス"Venus"まで惑星"Venus"として処理されるから、女神ビーナスについての翻訳では信頼できず、妥協案で"Diosa Venus es la segunda."とするしかない。
そのまま女神ビーナスと金星と水星を形容詞「白い」で求めて平叙文を作ると、今まで男性扱いの金星について"Venus es blanca"(原文:金星は白い。;返答でピリオドが付与されない) と女性として返答された。
つまり、内部の処理で女神ビーナスと金星の混同があるとき、その確率論は不明だが、どっちかの時には男性・女性で異なって処理されるように、"Venus"という語形は意味によって文法性が異なるものと看取される。
自然言語処理 (Natural language processing, NLP) の壁の一つではあるが、この打開には複文で脈絡を演出することが挙げられる。
すると、その発想で女神ビーナスと金星の違いを先に位置付けた複文を作ると"Venus es una diosa y Venus es blanca."(原文:ビーナスは女神であり、ビーナスは白い。;コンマなし), "Venus es un planeta y Venus es blanco."(金星は惑星であり、金星は白い。;コンマなし) として理想的な返答があった。
注記すると、数ある形容詞で「白い (blanco, blanca, blancos, blancas; white)」を選んだことは、「大きい (grande, grandes)・明るい (brillante, brillantes)」などが男女 (masculine and feminine) の区別を有しないためであり、それ以上に筆者の感性を込めたつもりでない。
後で「良い (bueno, buena, buenos, buenas)」が浮かんだので、そちらでもよかったろう。

このように「Google翻訳 (Google Translate)」を使う手段は、語学のための技能であって、当記事本文にあるような言語学研究と峻別されるべきであると思う。
語学でも言語学でも、個別言語を扱う際、例外を掬い取るような優れた辞書や文法書などがあれば、そちらですぐ調べることをおすすめする。

2019年8月10日土曜日

言語における科学性の多面的な説明

「言語における科学性」の話題は本家ブログ2019年5月16日投稿記事などに示された。

筆者は基本的に、言語を人文科学の研究対象とし、言語学を人文科学の範囲に置いている。
しかし、言語の何らかの側面を何らかの方法で研究するかによっては、言語学が社会科学にも自然科学にも形式科学にも認知科学にもなるという柔軟な判断もできる。

人文科学に分類されるべき「言語学 (linguistics)」の歴史を顧みよう。
ヨーロッパでも日本でも広い文明の範囲の古語・古典が、研究の端緒だったと思ってよい。
ヨーロッパにとって、古代ギリシャ語・古典ラテン語はもちろん、ヨーロッパ各地の古語(古フランス語・ゲルマン語派の古ノルド語・古英語など)や当時における近代語・現代語も考えられる。
ヨーロッパでは、彼らの言語とインド系の言語との大きな共通性が見いだされて以降の18~20世紀で、基本的に、古文献・古典から古語の特徴を集めたり(文献学 philology の領域に重なる)、次第に世界各地の現代的な言語(自然言語・口語・方言)をフィールドワークなどで集めるようなこともされ、それらが言語学の「基礎研究 (basic research)」ともいえる行為であったろう。
そこから歴史言語学のように一定の「言語」動詞をグループにした「語派」と、可能な限り巨大なまとまりにした「語族」と、それら大小の言語の「祖語」を想定することが主要な研究であった(代表的にはインド・ヨーロッパ祖語・印欧祖語がある)。

日本にとっての漢語・梵語と上代日本語が、その古代ギリシャ語・古典ラテン語とヨーロッパ各地の古語に類する。
ヨーロッパ各地の民族が彼ら自身のアイデンティティを確立する動向の同時期~その100年前=江戸時代中期・後期に、不干渉ながら日本で国学 (Kokugaku) の発展があった。
漢語・梵語(蘭学系以外では困難だが稀に西洋言語)は可能な限りに学ばれ、日本語の相対的な特徴を認知したり、古文献が万葉仮名で記されている制約下でいわゆる「内的再構」に類する作業が上代日本語のために行われた。
これには哲学的な思索が付随しており、神代の言葉(ことのは)を推し量りもした。
明治時代以降は西洋の人文学・人文科学が日本にも導入されるようになる。
日本についての説明は、当記事で必要な説明をしたが、具体的にどんな学者がいたかなどは2019-05-19記事やインターネット上の他サイトを見ればよい。

現代では、そういった人文科学に分類しうる言語学の歴史的な経緯の結果に様々な「応用分野 (applied…)」ともいえる研究や、その自覚がされている。
ちなみに、欧米では基本的に言語学を社会科学 (social science) と扱っている。



言語学の、人文科学 (human science, humanities) 以外の科学分野と近い点を端的に示そう。

形式科学 (formal science) …理論や規範に適う文法、一応の道理としての言語。数学的・論理学的 (mathematical, mathematics; logical, logic) な特徴の追求。応用として人工言語やプログラミング言語も有りえる。言語学は単なる形式科学でないが、もし形式科学の性質を強めれば、生身の人間の実用に適さない「形式言語。0, 1のような数字の羅列で示される、多義語や同音異義語や文法の混同が存在しない絶対性による言語」ができる。またはユークリッド幾何学の「幅の無い線(長さ無限 ∞ 究極の1または0の直線=一次元 ユークリッド原論 Στοιχεία に云くΓραμμὴ δὲ μῆκος ἀπλατές.)」と同じような「音も文字も概念も無い言語」ができる。それでは極端なのでまだ一般的な言語学になじんだ例を挙げる必要もある。現代言語学で文法を考察する際の構文木 (parse tree 解析木) を用いた分析 (e.g. IC分析 immediate constituent analysis, 生成文法 generative grammar) は、これも形式科学の特徴を持つ。

認知科学 (coginitive science) …人によって使用される言語(自然言語)の文法・語彙・音韻が状況(知覚とそれが脳で処理されること・恣意的な取捨選択や推定や譬喩・比喩の行為など)によって固定的でない前提に基づいた研究。それは主観性と一括りにできるが、使用能力の制約なども加味する場合は主観性に限られない。美術や音楽などの芸術分野は、外界の知覚や他者との認識の共有に基づくとしても主観性が重要である点で、自然言語の刹那的(その場限り)・主観的な側面に適合する(私は「共通主観性」に関連して音楽作詞に方法論を応用して「楽語共調理論」を作った。リンク先記事では美術の表現主義 expressionism や実験音楽 experimental music などに疑問を呈してもいる)。認知言語学に似た神経言語学は神経科学(neuroscience, brain science 日本で脳科学として人気)に関連するが、言語を手段として研究される脳機能の検証・実験・解明は、言語学が研究対象とする事物でない。

社会科学 (social science) …言語の社会的・現代的な使用の分析(流行語やスラングは扱いづらい)。商業や経済(マーケティング)など多分野での応用。民族 (ethnic group) と言語の関係。言語政策 (language policy) に代表される、政治 (politics) と言語の関係。各地の公用語教育(national language, 事実上のもの de facto を含む)・外国語教育のような言語教育での応用。多言語と共生できる文明の可能性の追求。

自然科学 (natural science) …音声学における解剖学・音響学の応用。音韻論における硬さ・軟らかさといった音声的物性。形態論 (morphology) における複合語 (compound) の特徴は、化学 (chemistry) の化学式・化合物のようである(複合語や品詞の形態素 morpheme に関しては原子や分子や素粒子などよりも素数や素因数のように数学に似るように感じる。ただし手 te という日本語は手綱 tazuna, taduna の ta があるように古代日本語での構成 ta + i = te2 て乙類で化学式に似る。形態素も音素 phoneme で構成されることが音声言語には必須)。形態論と同じ英語名称を持つ生物学の形態学 (morphology in biology) とは似ないが、語形に関する知識が言語の特徴をはかる基準になれば生物学の形態学に似る。そうしたプロセスや、民族区分(一般には個人の自負が尊重されるので歴史上の推定のためには地理学 geography 人類学 anthropology 全般の知見も借りられる)に基づいた個別言語の分類は、生物学の分類学 (taxonomy in biology) に似る。死語・消滅言語 (dead, extinct language) の特徴を文献 (inscription, epigraph, folio; writing; cf. 化石 fossil) から把握したり、個々の単語の再建 (reconstruction) に及び、祖語の推定は古生物の復元にも通じる(古生物学 paleontology に似る古文書学 palaeography は即物的であるので基本的に言語学よりも考古学 archaeology の領域)。

現代の言語学は、いくらかの分野で発話における文法・音韻・プロソディ (prosody, 詩学の用語と同じく韻律と翻訳される) の特徴を把握するために実験を行うなどの姿勢が、認知科学・社会科学・自然科学の各分野の方法論に重なる。

※生成文法のノーム・チョムスキーさん Noam Chomsky は言語学を心理学(認知心理学 cognitive psychology のことか不明)の下位と考えたようである。彼の派閥の人 (A. George) は心理学を生物学・自然科学とみなしたうえで言語学を心理学・生物学の下位に入れるように主張する。「人間の生物学」という情報も出たが、英語でいう"human biology"のことか不明である。チョムスキーさんが導入した生成文法を研究する人たちであっても一枚岩でなく、チョムスキーさんが言語の文法について示した見解に批判や議論が生じるようでもある (cf. 西山 1998 で Chomsky派George, A. がKatz, J.を論難しようとした旨)。チョムスキーさんら言語学者たちがどれほど自然科学の概要を把握して何の前提に基づいてそう主張するか、私は知らず・論駁せずにいようと思ったが、ここまで記してチョムスキーさんと信奉者たちが持つ生物学の見解を調べ直そうと思う。チョムスキーさんが他にも示した普遍文法 (universal grammar, UG) という発想を神経科学から証明する酒井邦嘉さんの研究や、チョムスキーさんとも交流したマサチューセッツ工科大学 MIT Linguistics教授・宮川繁さんの統合仮説"integration hypothesis"(2015年BBCの特集でも彼の名が載る)を調べてみてもよい。MIT博士号(言語学)を持つ福井直樹さんも「自然科学としての言語学」と題する著作 (4469212652) を出している。要するに言語能力の先天性から人間に普遍的な文法というものが想定され、後天的に日本語や英語など(普遍文法と個別言語の関係にはパラメーター parameters が想定されるという)を幼児が言語獲得(first-language acquisition)に至るということであり、一理ある。しかし、先天性を引き合いに出すならば、日本人は日本人限りの遺伝性で英語の習得には音韻・文法とも遅延があろう(i.e. 民族ごとに遺伝される内容・生得的な言語能力に微妙な差異がある)と私は思う。反対の目線での研究も大事である。無論、私の姿勢が専門家からは雑駁に思われそうでも、私は何の専門家でもないから色々な観点で物事を考えて党派に属さなかろう。

以上、端的に示しておいたことは、言語学が扱う言語関連の事物のどういった側面をどう研究するかにより、言語学の人文科学以外の特徴を示そうとしたものである。
実際に言語学の任意の分野の研究者が、以上で示された他学問の研究者と共同で・協同で研究を行う必要性は無いので、そのことのみ、注意されたい。

言語学の他の科学(=科学分野。加算・複数形)に通じる特徴が示されるならば、人文科学に関わる人々が他の科学に親しみを持てるようになると思うし、一般の民衆も身近な領域から「科学(不可算としてのScience)」を考えることができると思った。
言語学を「いわゆるカガク=リケー(理系・理科系)」として権威付けしたいわけではない。
インターネットで情報技術が普及したのであるから、一般人も言語のことぐらいはメディアリテラシーによって科学的に考察できてもよい。
上記のように科学も多種多様であるし、「基本的な科学の精神」と共に色々な観点で「言語・言葉(ゲンゴ・コトバ)」という客体を測ることができると思ってほしい。
他の科学も「同じ人間が行っている」ということで、パソコンや携帯電話(スマートフォン、情報端末)や身近な家電などを作るための高度な数学や機械工学や、遠くの天体を精密に観測するための天文学は身近に行えない(実際の製造や観測などは金銭がかかるし個人の趣味の範疇でも望ましくない)としても、心での風を止めて抵抗感を無くしてもらおう。



!以下から大々的に下書き (draft) 状態!
(記事投稿日時時点)


数学関連の学習(平方根・方程式など)
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA:%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%B0%E5%AD%A6
数学関連の学習(アレ関数など)
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%B0%E5%AD%A6
物理学と数学の関係
http://physics.thick.jp/index.html
理工系数学
https://risalc.info/index.html
情報処理関連
https://algorithm.joho.info/image-processing/binary-editor-stirling-bmp-file/
化学関連の学習(基礎の全般)
https://pigboat-don-guri131.ssl-lolipop.jp/



言語学に応用数学の技法を取り込む研究の案

筆者が少し中等教育数学を学びなおした上で提案しよう。
以下の案では、統計の手法や、関数・幾何学の知識などを取り込んで研究することになる。

統計的方法 (statistical methods) を言語学に取り込む発想くらいは、私でなくとも既に先行研究が多くあるのではないかと思ったが、2019年5月までに私は一度も見たことが無かった。
せいぜい歴史言語学や語用論のためのコーパス言語学の範疇で、言語の用例を任意の範囲内の文献(小さな研究目的に相応)から探して定量的に提示するようなものが見られる程度であった。
統計的方法を言語学に取り込むことは、学問分野でいうと数理言語学 (mathematical linguistics) の下位・副分野 (sub-descipline) としての「計量言語学 (quantitative linguistics, QL) 」になるかと思う。
亜種には「計量比較言語学 (quantitative comparative linguistics) 」もあるが、当記事で以下から示す「硬口蓋化指数」は比較言語学の歴史言語学的な目的に限らないため、その領域の内外に跨るものかと思う。
他には「計算言語学 (またはコンピュータ言語学 computational linguistics)」もあり、理工系の「自然言語処理 (natural language processing, NLP)」に関わりのあるものとして当記事で便宜的に区別をしたい。

関数や幾何学の知識を言語学に取り込む発想は、私の脳内で「数理言語学 (mathematical linguistics) と呼ばれるに値する」と思っていたが、当記事の執筆に際して色々と調べなおすと、学問分野の区別が一般的には不明瞭であるようであったし、便宜的に数理言語学と呼ぶしかない。
幾何言語学・幾何学的言語学という呼び方もあろう。



硬口蓋化指数 (?)
※そもそも日本で応用的な分野に用いられる「指標」に関する意味の「~指数 (shisū)」とは、英語でいうと何か?「指数関数 exponent function」という時のそれでない。「知能指数 intelligence quotient」の"quotient"は、割り算の解の整数部である「商 quotient (e.g. 20 ÷ 6 = 3 あまり 2 は a / b = q... r と代数にして 3 = qに相当する)」と同じ言葉である。「ボディマス指数 the body mass index, BMI」 "EPI, Environmental Performance Index"などは"index"と称し、計算方法が明らかに知能指数と異なる。他に、"** scale"や"** score"などの名称で社会や医療の考察対象である事象が数値化されることは多いので、どういうものがあるか色々と探して知見を得る必要がある。

「硬口蓋化 (palatalization@ alt. 口蓋化)」は、任意の言語の古形とその後世の形とで相対的に見られる子音の変化現象である。
代表例はティ /ti/ →チ・シ /chi, shi/のような歯擦音化 (assibilation, alt. spirantization, fricativization) であるが、他にも多様な変化がある。
言語ごとに、具体的な子音の起点と終点の音価の異なりがあるし、時代差もある。
硬口蓋系だとされる音自体も多様であり、単純に「硬口蓋化した子音 [ʲ]」とするもの(e.g. スラヴ語学でいう軟音ь 日本語の拗音のうちキャ行・ミャ行・リャ行の音)や、硬口蓋破裂音 [c] や、硬口蓋系の破擦音 [t͡ɕ] [t͡ʃ] など、様々に異なる特徴の子音を一様に硬口蓋系であるとか硬口蓋化であるとかと括ることもできる。

※なお、「音声学でいう硬口蓋化」と、「歴史言語学・音韻論でいう音変化 (sound change) としての硬口蓋化」は、定義が異なり、硬口蓋化指数でいう硬口蓋化が後者であることに注意されたい。前者=音声学でいう硬口蓋化はIPAにある [ʲ] が伴った子音のみを指す。日本語の拗音のうちミャ行の音はマ行に対比でき、スラヴ語学でいう軟音ьも硬音Ъに対比できる。後者=歴史的な音変化の現象に含まれる子音の範囲は必要に応じて広さがある(先述の通り・後に具体例を示す)。

硬口蓋化現象の終点側の歯擦音に限っても、「任意の地理的範囲の東と西」とで異なる音の傾向を持っていたりもする。
例えばチャ発音が歯茎硬口蓋音 [t͡ɕ] である漢字文化圏=日本/チ, ch/・中国/ㄐ, j/・朝鮮/ㅈ, j/とスラヴ語圏のロシア/ч/・ポーランド/ć/などに対し、後部歯茎音 [t͡ʃ] である現代インド=ヒンドゥスターニー・ベンガリと西ヨーロッパがある(主要な言語発音として言語学で承認があるものはそれらの地域で代表的にそうある。方言や他の言語には別の場合もある)。
言語に「東vs.西」という二項概念が適用できてしまう例、と私は考える。
こういった言語の傾向には歴史的な見地での解明が可能であるが、更に単純化する「物差し・メジャー measure」として「硬口蓋化指数」を開発することもできる、と私は思っている。



まず、「硬口蓋化」と想定される言語現象(音変化 sound change)について、私が想定する例を示す。
例の通り、一般的なIPA(国際音声記号)を付与し、音素表記 (phoneme) と音声表記 (phone 単音 音価) とを分ける。
特に断らない限り子音は無声音を示し、有声音の場合に「有声」という接頭語を用いる。
日本語の場合はそれ自体の言語発音を示すものと見るべきだが、西洋言語の場合に付されたカナは参考までに私が一般的な音写例を示したに過ぎないものと注意されたい。

ラテン文字の音素「C シー=スィー (現代語での名称はドイツ語ツェーなど破擦音も多い)」
古典ラテン語 [k] (軟口蓋破裂音)→ 現代イタリア語 [t͡ʃ] (後部歯茎破擦音) (ニワトリ擬声語由来の英語コック・チキン互換のch表記で見られる音変化), 現代フランス語・英語 [ʃ] (後部歯茎摩擦音), [s] (歯茎摩擦音)
単語例: -cia キア/ki.a/→チア/tʃi.a/・チャ/tʃa/(保留。イタリア語の例だとマイナーになりそう)→シア/ʃi.a/・シャ/ʃa/(ガリシア Galicia, オフィシャル official. それぞれラテン語での語源はGallaeci, Gallaecia; officialis, officia, officium 一般的に日本でカナ表記される語彙でないが一応→ガラエキアまたはガッラエキア、オッフィキアリスまたはオッフィキアーリス)
※オフィス office はオッフィキウム officium の類であるため、この例だが、その他に英語やフランス語に見られるス -ceは古典ラテン語-tia系 (e.g. Venetia, Venice; scientia, science) になるので後述。

日本語族の音素「か行い段=き」
音声としては標準的な日本語で [k] および [kʲ] (硬口蓋化軟口蓋破裂音。特に強めの硬口蓋化か。一説に硬口蓋摩擦音が続く [kç] も挙げられるが二重子音か破擦音か摩擦音化かどうか説明が無い)→恐らく琉球語派の一例で [t͡ɕ] (歯茎硬口蓋破擦音)
単語例:標準的な日本語 おきなわ okinawa [o̞kʲina̠ɰᵝa̠] 琉球語派の一例 うちなー ucinaa (uchinaa) /ʔut͡ɕinaː/ (英語版Wiktionary - 沖縄 に各言語のIPA表記例が載る)
※日本人は元来、前舌母音の音が前後にある際の無母音子音にイの音を付加してきたことがある。漢音「一色 いっしょく isshoku」に対する呉音「一色 いっしき isshiki」や、「節分 setsubun」に対する「お節 osechi」/setubun, oseti/(比較として節という漢字の中古音を参照。節の音素 /t/ は入声・閉音節・無子音)や、Graecia, Greece = グラエキア・グリース/guraekia, gurīsu/にあたる西洋言語の語句の音写「ギリシア・ギリシャ Girishia, Girisha」(イギリス Igirisu はその類例。ただし中国語か任意のアジア言語を介して日本で音写されたパターンであるならばそれらの言語も似た性質があったと考える必要がある)や、「マックス max, makkusu」に対する「マキシ maxi, makishi」などの単語に見られ(類例はtext テキスト・テクスト tekisuto, tekusuto, 反例は肉 呉音: ニク niku, 漢音: ジク jiku 漢字音は当然、現代の辞書に載るような一般的に継承された例のみを取った場合の話。過去に 中古音で任意の-ng韻が呉音-you, 漢音-ei韻となる場合の漢字音を頻繁にあげたそれも、當 tangが当然のトウ=タウ tauではなくタイ taiとして當麻寺 当麻寺 Taima-deraになっていることなど中古日本語以前の例は探しても判断しづらい)、日本人が自覚できないくらい日常的に大量に使われる。これらは、原語で無母音子音の前後にある母音が日本語で前舌母音となるエ段・イ段 /e, i/ の音であるために [kʲ] (キャ kya の子音 /kj/)という硬口蓋化の音として受容したことが、古代から現代までの日本語での個別語句の借用の原初にあったと思う。借用のタイミングのことは歴史的な音変化との関連性が低いので、この例に含めない。「硬口蓋化指数」のためには余分になると判断する。

古代ギリシャ語に対する現代ギリシャ語の音素「Κ カッパ」 /k/
[k] (軟口蓋破裂音) → [c] (硬口蓋破裂音または [c̠] 後部硬口蓋破裂音)
単語例:Μακεδνός [mɐc̠e̞ˈðno̞s̠] (現代ギリシャ語は日本に借用語が少ないので英語版Wikipedia - Voiceless_palatal_stop#Post-palatalから引用した。単語は歴史学でマケドニアと関連付けられる「背が高い」という意味の形容詞だが現代ギリシャ語では一般に用いないと思われる。日本語のケの軟口蓋破裂音と異なる表記だが発音の例を聴くと同じように聴こえる。軟口蓋破裂音との違いを無理に見出すならば調音位置が軟口蓋よりも硬口蓋で発せられたようなチェの要素がわずかに感じられる。現代日本語ではキほどでなくもケが硬口蓋化しているように思えてある意味では現代ギリシャ語のκεと同じような音だと思う。気になるならば自分で発音しながら解剖学的に意識したり、日本語音声 [kʲe] と推定上純粋な軟口蓋音 [ke] とそのギリシャ語音声とをスペクトログラムで解析してフォルマントの特徴などを抽出すればよいがここでは詳述しない)

印欧祖語に近似する音価もあるケントゥム諸語に対するサンスクリット(パーリ語に共通して梵語)の硬口蓋 (tālavya, tālu) 阻害音系音素
[k] (軟口蓋破裂音)または[kʷ] (唇音化した軟口蓋破裂音)→ [t͡ɕ] (歯茎硬口蓋破擦音) [ɕ] (歯茎硬口蓋摩擦音) [d͡ʑ] (有声歯茎硬口蓋破擦音)
単語例:ラテン語クヮットゥオル quattuor(いわゆるクアトロ quatro)⇔梵語チャトゥル catur चतुर्、 ラテン語ケントゥム centum⇔梵語シャタン śataṃ शतं (シャタ śata शत)、 古代ギリシャ語ギグノースコーγιγνώσκω(いわゆるグノーシス gnosis に関連)⇔梵語ジャーナーミ jānāmi जानामि (辞書形3人称ジャーナーティ jānāti जानाति; カナ表記の定まらないヨーガ用語 ājñā आज्ञा アージュニャー・アージニャー・アジナ・アジュナ・アジュニャーに関連) 過去記事参照
※これに限らず、サンスクリットで反舌 (mūrdhan, mūrdhā) 摩擦音とされる音素 ṣa ष を持つ単語の一部が、相当するケントゥム諸語の単語によって印欧祖語での音素が *k, *kʷ と推定される。数詞の八・英単語エイト eight の同系であるギリシャ語ラテン語同系オクト(オクトー) octo, ὀκτώ に対するアシュタ aṣṭa अष्ट、英語ドラゴン dragon の語源で動詞「見る」の派生語であるギリシャ語 δράκων (drákōn) に対するサンスクリット語根 dṛś दृश्  (当ブログでは仏教用語の見・ドリシュティ dṛṣṭi でおなじみ。この語根は硬口蓋系の摩擦音śa श で扱っていて実際の単語ではś + tの転結で反舌音化する現象により副次的ではある)がある。

ラテン文字の音素「T ティー (一部でZ字使用)」
[t](歯茎破裂音) → 何かの言語 [t͡ʃ] (後部歯茎破擦音) フランス語・英語 [ʃ] (後部歯茎摩擦音), [s] (歯茎摩擦音)
単語例:ダルマチア Dalmatia ・英語の犬種ダルメシアン Dalmatian とかを複数言語で調べてみよう@、古典ラテン語ナーティオー nātiō →俗語ナツィオ natio →イタリア語ナツィオーネ nazione, フランス語ナショorナスョ nation, 英語ネーション nation
※ウェネティア Venetia →ヴェネツィア Venezia例はイタリア語で歯茎破擦音 [t͡s] なので硬口蓋化の例でない(i.e. 歯擦音化のみ)。ただし英語のVenice, フランス語のVeniseは [s] (後者は [z]) に該当(過渡期・中英語が借用する元の言語=何らかのロマンス諸語のうち古フランス語などに硬口蓋系歯擦音か摩擦音だったと考えられる)。
他の単語例:多分RP英語で [t] tree (カタカナ英語でツリー) GAとしてのアメリカ英語tree [t̠ɹ̠̊˔ʷɪi̯] チュリー(複雑なIPA "t̠ɹ̠̊˔"は後部歯茎で調音されながらも非歯擦音としての破擦音であることを意味している。この単語GA発音の例では唇音化してさえもいてトゥルウィーと無理にカナ表記することも可能)
※英語の抽象名詞に見られる-ション -tion (根源はラテン語 -tio) については中英語の文献で-cionのようにC字を用いるなど、中英語が借用する元の言語=何らかのロマンス諸語のうち古フランス語やアングロ・ノルマン語などからして、摩擦音か破擦音への歯擦音化が既成事実化していたことを想定する。まさかとは思うが、t = /t/ が同じく破裂音である c = [k] に変化したという、基本的に言語学で観測されづらい現象は無かろう。

上代日本語と現代日本語の音素「た行い段=ち」
 [tʲ] (硬口蓋化した歯茎破裂音)→  [t͡ɕ] (歯茎硬口蓋破擦音)
単語例:上代日本語 *miti, tika 標準的な日本語 道 michi, 近い chikai 琉球語の宮古方言 mtsï or mcy むツ, tsïka or cyka ツカ (借用語などにあるティ/ti/やテュ/tyu/の類は硬口蓋化した歯茎破裂音 [tʲ] として解釈される)
※現代語に関する現象で「なんという nan to iu・なんていう nan te iu」や英語の"Did you..."が、硬口蓋系の破擦音「なんちゅー nanchū」や英語 [dɪdʒuː](近似カナ: ディヂュー)で発現することがある。反対に、ドイツ地名の外来語 (gairaigo) カナ表記「テュービンゲン tyūbingen(原語ではuウムラウト = ü が用いられる)」にあるような硬口蓋化子音 [tʲ] としての「なんてゅー nantyū」を大半の日本語話者は常用しない。連声(外連声・内連声)・連音・サンディ (sandhi) を古代から形式的に保持するサンスクリットにそういう種類のものは無くも、同系言語のパーリ語にはサンスクリットと同じ単語が硬口蓋系破擦音に変化したような単語が多い。それは2018-03-08記事に"satya"に対する"sacca"などを縷々と例示して説明される。先の日本語・英語の例にあるような、文法的な形態の連結の場合にサンスクリットやパーリ語で同様の現象があるかは定かでない。

中古音・漢字音の音素での硬口蓋化系 /Cj (Cʲ, CはConsonantの略)/
明、呉音ミャウ・ミョウ、漢音メイ、唐音ミン 中国語拼音ming 韓国語ラテン文字表記 revised romanization = 文化観光部2000年式でmyeongミョン@
※上古音ではlやrのような流音で二重子音を形成していたと推定される。
※「中」と「種」は現代中国語で"zhong"系であるものの、字音仮名遣いでは前者「ちやう/*tyau/」と後者「しゆ/*syu/ orしう/*siu/」に分かれる。これは広東語前者zung1後者zung2・韓国語前者jung 중後者jong 종・ベトナム語前者trung後者chủngを比較に用いれば、中古音ZZで前者/ʈɨuŋ/後者/t͡ɕɨoŋX/と推定されることが分かる。2017-05-21記事にも同じ趣旨が書かれる。中古音で硬口蓋系の破擦音であると分かるか硬口蓋系の響音・介音があると分かるか硬口蓋化 [ʲ] があると分かる、限りはこの例に含めない。もしそれ以前(日本・朝鮮・ベトナムなどに現代までの命脈を保っている借用がある以前や上古音)に硬口蓋系の音が子音部に無い限りはこの例に含めてよい(上古音は不確実の要素が多いが参考にしようという。例としてBS前者*truŋ-s後者*(mə-)toŋʔ-sで含める例=硬口蓋化の発生前に当たるように見える)。

中古音・漢字音の音素での硬口蓋鼻音系 /ɲ (nj)/
現代中国語普通話で拼音"r" /ʐ/ (有声反舌摩擦音or接近音) に相当し、朝鮮語で文化観光部2000年式"y" /j/ (硬口蓋接近音。ハングルで母音表記のみ)に相当し、広東語で粤拼"j" /j/ (硬口蓋接近音)に相当。e.g. 「柔 Hepburn: nyū (ニュウ:呉音), Pinyin: róu (ゾウorロウ), revised: yu (ユ), Viet: nhu (ニュ), Jyutping: jau4 (ヤウ)」 「二 Hepburn: ni (ニ:呉音), Pinyin: èr (アーorアル), revised: i (イ), Viet: nhị (ニ), Jyutping: ji6 (イorイィ)」 「然 Hepburn: nen (ネン:呉音), Pinyin: rán (ザンorラン), revised: yeon (ヤンorヨン), Viet: nhiên (ニェン), Jyutping: jin4 (インorイィン)」 @

中古音・漢字音の音素での軟口蓋鼻音系 /ŋ (語頭に限るng)/
日本語カナでガ行音素に相当、現代中国語普通話と朝鮮語で無子音(ゼロ、ヌル。ハングル字母でㅇ)に相当するが、一部が普通話で拼音 /y/(硬口蓋接近音)に相当、ベトナム語と広東語で軟口蓋鼻音の音素に相当。e.g. 「我 Hepburn: ga (ガ), Pinyin: wǒ (ウォー), revised: o (オ), Viet: ngã (ガorア), Jyutping: ngo5 (ゴーorオー)」 「牙 Hepburn: ge (ゲ:呉音), Pinyin: yá (ヤー), revised: a (ア), Viet: nha, ngà (ニャ・ガorア), Jyutping: ngaa4 (ガーorアー)」@






以上に見るように、硬口蓋化は多様である。
基本的な原因としては、単語例に見られるように阻害音系の子音にエ /e/ やイ /i/ のような前舌母音 (front vowels) が付いたCV構成の発音が主要である。
それに種々の間接的な原因=条件 (conditions) があるものとして、私は思考を重ねた。

多様な「硬口蓋化」の歴史的な条件と発生時期について、2019年3月ころに指数を求める発想があった。
その指数は、日本語族の日本語と琉球系の一言語・ロマンス諸語のフランス語とイタリア語・サンスクリット・朝鮮語・中古音の一系統から現代普通話の中国語漢字音など、各々のために個別に決定されることになる。
値が近似する言語どうしは硬口蓋化に代表される音変化の特徴が似ていると判断する。
その指数を求めるための基準に以下を私は想定する。

・硬口蓋化の起点 (e.g. [k], [t]) や終点 (e.g. [t͡ɕ], [ʃ]) など種々の子音の発音に必要なエネルギー量
 「エネルギー量」は、参考までにアフリカの言語のうちでもナミビアあたりにいる民族が用いるコイサン諸語で常用される「吸着音"click consonants"」を考察するとよい。文明的な国では古代でも現代でも、それが言語音声の弁別に用いられたという証拠が無いが、アフリカの部族・民族の一部では日常的に用いられているという、このような二分法が可能である。アフリカがHomo sapiens sapiensの起源を持つこと・原始人が狩猟採集をしていたことなどと、その部族・民族の生活が一致しているので言語も原始的な特徴を持つと考えるかもしれないが、「吸着音は最古層の言語音声だ」と結論付ければ早計である。私はその物質的な証拠を何も認知しない。また、生物の進化の多様性は各々の必要な時間をかけて成り立ってきたことからして(ダーウィン進化論についてしばしば言われる話)、言語の多様性もそういう過程から各言語の個性が成り立ったろう。アフリカの狩猟採集の部族・民族もまた、その個性が一定の時間をかけて成り立った可能性 (i.e. 子音強化 fortition) がある。現代日本人である筆者は、吸着音がとてもエネルギー使用の大きい子音発音だと思うが、それで最も古代の言語の特徴であると断定しづらい。とりあえず、エネルギー量の大小は、大まかに吸着音≧破裂音>破擦音>摩擦音>接近音のように想定されると付記する。無論、今に列挙されて最もエネルギー量が少ないと見られる接近音も、多くの言語話者にとって歯茎系の破裂音・破擦音よりも接近音 [ɹ] の発音が困難とされるならば、解剖学的・生理学的な構造にその原因があり、実際に力学的にも調音器官を動かす際に話者ごとの余分なエネルギー使用が発生するので、あくまでも任意の調音点における任意の調音器官による各種調音方法の子音を機械的に発音した際の想定である。

・時期ごとにおける異言語との接触

・食品の軟化または硬化(e.g. ある採集狩猟民が固い木の実・草・生肉を食べていたが農耕が定着して調理技術が進んでからはご飯 coocked rice, grain, cereals やパン bread を食べるようになった)が発生した後にその継続によって変化した歯列・骨格による発音能力
 2018年3月8日の記事末尾 https://lesbophilia.blogspot.com/2018/03/fricativization.html#artifoot で説明済み。「人間の文明は裕福となり、数万年前~数千年前の人類が硬い肉や木の実や穀物を食べていたことに比して食肉も果実も穀物もみな柔らかくなっているし、現代は様々な機械音(エンジン音や動作音)・電子音(シンプルな波形など)・人工的音声を聴覚的に受けてもいる。人の顎と歯が退化し、舌などの機能が弱まり、聴覚的に人工的な音声を多く聴くといった因縁(感受・認識・経験・定着)のある現代文明の条件下であれば、その果報が相応に発生するということである」といい、仏教の因縁観を援用して認知科学・神経科学の趣旨を説いている。

これらの条件や判断材料も数値化・整理する必要があるので、実現のためには非常に多彩な分野の情報や多くの研究者の共同作業を要すると思う。
それで硬口蓋化指数とされる何かを作ることができても、学問的にその確実性を得られるかは定かでない。
一応、この硬口蓋化指数を用いることで言語における様々な音変化や民族の遺伝的形質の変化などを推定することが私の期待である。
分子人類学や遺伝学で究明されるべき「民族」(mtDNA, Y-DNAハプログループとかの何らかの範疇を拡げて通念上の日本人<東アジア人種などの領域で想定)ごとの言語の特徴(最適性理論に関連)も、歴史的・社会的な経緯で徐々に形成されたか、生理学的な特徴(調音位置・調音方法が人体の形質や脳・神経の機能の傾向に依存する)から進化論的に形成されたか、硬口蓋化指数が手掛かりになると期待する。

硬口蓋化によって破裂音の特性が変わったり、破擦音・摩擦音になるということ(更にはジャ・シャ系統が硬口蓋接近音としてのヤ [ja] になるか一言語の古い文献ではその異言語の似た系統の音 like as [ʝa] を/ja/で記録するような場合もあること)は確かに承認されるが、そのようなものは「子音弱化 lenition」であって反対に「子音強化 fortition」も言語によっては存在する。
子音強化は、歴史的な音変化よりも異言語間の借用語に見られ、特に文明の発達の度合いが高いものから低いものへ借用があった際に多く見られる。
これも私がその概念名称を知る以前に、(借用の起点と終点)「パーリ語とタイ語」、「漢字中古音とベトナム語」、「西洋言語と朝鮮語」を引き合いに出して2018年3月8日の記事末尾 https://lesbophilia.blogspot.com/2018/03/fricativization.html#artifoot で説明済みであるため、参照されたい。
英語版Wikipedia記事 - Fortition (oldid=892797175)には「スコットランド語・ラテン語・英語などとスコットランドゲール語 Scottish Gaelic」の例が挙げられる。



ここまで綴られ、読者がこれを読み、「硬口蓋化指数とは何を表現したいか?」と疑問に思うかもしれない。
硬口蓋化指数という名で、色々と考えられた。
1. 硬口蓋化という音変化が現代語に見られる結果の量的表示
2. 硬口蓋子音および近似する子音の現代語における微細な弁別(e.g. キ・チの弁別、ニのような硬口蓋系の鼻音と目された中古音漢字が日本語呉音とベトナム語では維持されるが中国語普通話と韓国語では維持されていない)の量的表示
3. 硬口蓋化の原因となる民族的特徴(遺伝学・分子人類学・形質・病理など)の量的表示
4. 硬口蓋化の原因となる文化的背景(食事・言語接触など)の量的表示

これらを全て数量化してから総合的な硬口蓋化指数を作るべきであろうか・・・、発想当時のアイデアがいつの間にか不明瞭になっている。
どうぞ天才学者さんで興味をお持ちの方が仕上げればよろしうございます。
2を調べるには、大学所属の学者の常套手段で世界各地出身の学生たち数百人を臨床試験に用いるなどすればよろしうございます。



概念図(抽出図)であっても、その日本語族・ロマンス諸語・サンスクリット・中国漢字音・朝鮮語などの個別の指数をチャートにして示す@



科学的な母音表 (scientific vowel chart) を自然科学の手法で生み出す案

生成音韻論 (generative phonology) と実験音声学 (experimental phonetics) の統合は言語音声研究における課題と考えられるようである。
生成音韻論における「弁別素性(distinctive feature または弁別的素性)」では、何かしらの基準に対してプラス + マイナス - を振るような発想が1960年代からあるが、未だ定説を見ないようである。
個人的にも、例えば「日本語の無声破裂音/k, t, p/は常に少ない有気音"aspirated consonants"の特徴で発せられる(音素としては有気音・無気音の弁別が無いが有気音を弁別する言語にとって無気音に置換できる)」と言うとき、その言語音声の具体的な一例(/ka/ 1モーラのみ)を、現代英語ネイティブスピーカー(彼らは語頭でアクセントある破裂音を有気音で発する)にはアクセントのある音節だと認知する者とそうでない者とがいたり、朝鮮人には有気音=激音(격음 またはコセンソリ 거센소리)として認知する者とそうでない者とがいると仮定する場合、音声学の立場では、日本語の破裂音の音素は無気音とも有気音とも確定しづらい側面がある。
弁別素性では、「日本語の破裂音の具体例」が有気音であるかどうかを、[+/− spread glottis] で判断すると思う(i.e. 日本語の破裂音は [+ spread glottis])。
言語音声を通言語的に識別するにも、弁別素性で +, - の二分法だけでは通じないかもしれない、と私は思っている。
もし、認知に関することよりも客観的な調音部の運動などを基準とするならば、私が彼らの論点を捉えていなくて弁別素性を考え直すことができない。
とはいえ、「日本語の破裂音の有気音としての特徴の多寡」のような微量の差異も学術的に名称のある場合がある(後述の母音にて詳述)し、やはり+, - の二分法だけでは言語音声の分類に課題が残ると思ってよい。

弁別素性・生成音韻論という、言語学のうちの一分野に貢献できるか不明であるが、本論に入ろう。
実験音声学の解剖学的な方法論 (調音音声学 articulatory phonetics) のみならず、音響学的な方法論 (音響音声学 acoustic phonetics) で示された「フォルマント (formants; F1, F2, 必要によってF3)」の発想から、新たに同様の通言語的な設計を生み出しえる。
ここでは、母音に限って説明をしよう。

現代の音声学などで母音を示す際に用いられる「母音表 (vowel chart)」は、左に前舌母音・右に後舌母音、上に狭母音・下に広母音の基準を有し、右辺が垂直の線で左辺が上辺から下辺へ狭まる斜線で構成された四辺形で示されている(言い換え→四辺形ABCDで辺CDが垂直・辺ABが辺ADから辺BCへ狭まって伸びる斜線で構成されている)。
母音の区分には、その前舌・後舌や、口の広さ=狭・広(舌の高低)以外にも、唇の円さ=円唇・非円唇があり、それについては四辺形上の点の左を非円唇・右を円唇として区別する。
これは一般的な言語の母音を詳細に示す手段のうちでも基本的であり、調音の条件や骨格などによる制約を上手く捉えている。
しかし、日本語のウの音の微妙加減、エ・オの広さの中間具合などは、基本的なうちに含まれず、更に詳しい説明やIPAの補助記号を用いるなどして示す必要がある。

▽立体図形と母音の点と座標の値を示した画像

立体図形と母音の点と座標の値を示した画像。背景黒で線だけの立体図形に [u] X=63狭, Y=63後舌, Z=-64円唇 有声音である黄色の点を示す。[a] や [i] や 日本語ウも示す@

既存の母音表以外を基盤する場合は左右対称6角形を立体化するなど代案がある@

コンピューターの技術が日常的に用いられる人においては、やはり立体図形とその座標で、母音の特徴を数値化して示すことが、容易に想像できよう。
すなわち、既存の母音表の特性を生かしながら、判断基準すべてを数量化してしまい、X, Y, Zに配当して立体化する(その四辺形に奥行きを付ける)。
そこに個別の母音の位置を点で示すことで、あらゆる言語の母音を「構造的に(近代言語学・哲学のような言い方。構造主義的に structural。または生成的に generative)」示すことができる。
点にはX, Y, Zの座標の数値が示され、IPAで近似する記号を表示できる。
なお、無声母音"devoiced vowel, voiceless vowel" (e.g. ささやき声や日本語の語末ウ音 [u̥]) や、鼻母音"nasal vowel" (e.g. 日本語の撥音/N/の前で発せられる鼻音化した母音) を表現したいときには、これらを別次元に扱って表記する方法もある(普通の点を任意の色の円として無声母音や鼻母音の点を他の図形とするか色彩を変えるなど)。

このような考え方が、当ブログの2019年4月6日投稿記事に示されていた。
https://lesbophilia.blogspot.com/2019/04/symphonedy-vowel-pitch.html

単母音"monophthongs"は以上のようであり、二重母音"diphthongs"の場合は通常の母音表だと矢印直線で起点から終点を指している。
これもそのまま図形の中で再現できるであろうし、直線でなく適宜に曲線(後述の音声合成関連で生理学的・力学的な理由に基づく cf. 非ユークリッド幾何学のような曲がった直線。平面図形の世界地図上の直線と地球儀準拠の世界地図の曲線)を用いても可能と思う。

さしずめ、ノーム・チョムスキーの生成文法のようなモデルを母音表に反映したものと言おう。
こうしてチョムスキーさんの派閥の人が行う「生成音韻論」の「弁別素性」も、母音に限っては音響音声学・実験音声学の知見を加味して考察できるであろう。
そう思ったが、彼らの論点と、この研究とにはあまり関連性が無いかもしれない。
何かの発想に繋がればよいと思う。

言語学者たちの想像する言語音声のうち、母音のみであれば、これで自由に特性を示しえる。
これはまた、科学的絶対性にもならっている。
是非とも、いわゆる理工系の人に音声学(IPA, 調音位置・調音方法とその音響的発現)を学んでもらうことで音声合成技術の作成に役立ててもらいたいと思う。
この立体図形上の任意の点に対応した音声を、音声合成技術で簡単に出力できる発想もある。
※音声合成技術と音声学の知見の関連は、あまり公表されないが、管見の限りでは神経科学分野の福祉の方面で実用が考えられている(cf. AIに言語発音とその発話の脳の電気信号の関係性を学習させて音声合成を行うUCSFの Chang Labによる技術)。自立的な歌手とハイテク系シンガーソングライターが作編曲する場合やDAWを用いる音楽家がボーカルを扱う場合やボーカルのインストゥルメントのデータ(VSTi, SoundFont, 日本のアマチュア界隈で主流の歌声合成・歌唱合成ソフト関係)を作成する場合などにも多かれ少なかれ音声学の見解が借りられてもいる。

無論、人間の一般的な言語・自然言語で用いられない母音(無用なもの)をも発生させることになるが、もし生身の人間および言語学者に区別できない限りでは、何も問題の無いことである。
地球の座標 (geographical coordinates) も、単なる海面を指すことがあるのと同じで、直ちに問題とはならない。
考え直せば、人間の母音もまた自覚的・意識的に発せられたり聴かれたりすることは、人間の生物学的な知覚システムのために排除されているわけで、改めて科学的絶対性に近づけた見地では、発音の一時的な微細な区別を知ることになる。
無論、母音表の立体図形をコンピューターのソフトウェアで表示する際、点を置くことが可能な位置の数を限定すれば、特に学問的に実用的な範囲での使用も可能になる。

最先端の科学研究や技術開発でタブーな話題は「その研究題材や成果が直ちに役立つか・実用的か」ということである。
何らかの人にとってくだらないように思えても、そのように発明されたものが後々の研究や技術開発に役立つような事例を科学史から学んでいる人には、の研究の意義の有無を問うことが、科学自体の意義の有無を問うことであると分かるかと思う。
ましてや私は在野の研究者で、公費による支援は無いし、日頃の個人的な生活の時間が研究に傾けられるのみである。
そういうわけで、研究意欲のある人が可能な限りに色々と素敵な研究ができることを、在野の研究者である私は心で応援している。



少し話を変えるが、日本語の母音のウの音についての音素的認識が共有された日本人の間では、同じような音響的特徴を示現するであろう。
同じ狭母音のイの音でも、より広いアの音でもエの音でもオの音でも、音素的認識が共有される限りには同じような音響的特徴を持っている音であろう。
それは言語獲得が済んだ10歳程度の子供から、成人男性・成人女性にいたる多くの人で、彼らがウの母音を認知したり発音したりする場合も平等であろう。
声のオクターブ的な違い=人それぞれの基調となる声色を問わず、一般的な母音は固定的な特徴がその相対性のうちに示されている。
言い換えれば、母音の同一性とは、そのように固定的な特徴を言うことができる。

これも私が思う数学的な考察の仕方で示しえる。
第一フォルマント F1 と第二フォルマント F2を求めて長方形(四辺形の一種)のX方向とY方向の長さとし、それを言語獲得が済んだ10歳程度の子供から、成人男性・成人女性にいたる多くの人の発音標本から作製する。
それは数学でいう「相似 (similar, similarity)」として等しい幾何学的特徴を持つことになる。
ウの音にはウの音の長方形ができ、イの音にはイの音の長方形ができ、アの音にはアの音の長方形ができ、それが日本人の老若男女に共有されると考える。
数学や幾何学の形式科学の特性を言語の音韻論に適用した場合にそうであって、自然言語・音声言語の事実としてもそうであると言いたいわけでない。

他にも、X軸上にF1とF2との差を点にして置き、Y軸上に一個体の標本の標準的な声色のピッチ(音の高さ)を並べてみても面白い。
それでウの音とイの音とアの音は、それぞれ一次関数のような線としてX, Yの図に顕現する。
・・・、実際にどうなるかはともかく、何か数学的な発想を音声学に取り入れるための思考訓練として、こういった考えをしても面白いと思っている。




言語数理モデルの他の例示 (10月2日追記)

アナグラム (anagram) に近い形で何かしらの言葉遊び (word play) に役立つ指標を考えることがあった。
骨組みに:
①現代日本人の言語感覚によくある「複数の単語間または一単語を基準にした他の単語との文字列の一致度」
②ヨーロッパ広域(歴史的文献では中国を含む)で典型的な押韻
③音声学的な調音位置・調音方法の近似
などを含む。
個人的な作詞や言葉遊びの領域で、それらが骨組みの未完成な指標が少し利用される程度であり、今までに言及しないでいた。

上記のうち、一般的な類例は無いか?
①に近いものでレーベンシュタイン距離 (Levenshtein distance, edit distance) というものがある。
これはあくまでも情報理論 (information theory) に関連した歴史的経緯から成立した文字列の測定基準であり、様々な情報技術分野で便利に応用される・初歩的なスキルとして用いられる。
これだけだと、言語の系統に限らず数字に適用され、パズル的でもある。その方面で、ハミング距離 (Hamming distance) も重要にある。
回数の制約などのマイナーチェンジには「ダメラウ・レーベンシュタイン距離 Damerau–Levenshtein distance」があり、スペルチェックをはじめとした自然言語処理に寄与する。
私であっても、日記メモの編集行為・プログラミング言語の使用・バイナリエディタの使用などから、効率性を考慮する過程でそのような測定基準を脳内に持つことはあった。
③には何かしらの言語音声アルゴリズム (phonetic algorithm) が適用できる。
とはいえ、近似的であるから、私が求めるようなものは可能な限り私の方で考え、その後に比較・対象行為が行われよう。

改めて2019年10月2日に、この方面で参考までに知るべきことを知ったので、当記事に補足する。






起草日: 20190527

起草日とその翌日に草案として11,000文字程度を書いた。
その時に「思考が混乱しそうである。しばらくこの記事の話題を保留にして既存の美術・音楽・学術の作業に戻らねばならない。それから1か月間でも1年間でもじっくりとこの記事の話題に取り組もう」と考えた。

言語学に当記事で示したような応用数学の手法を取り入れる案は、言語学が人文科学である伝統と手法を、研究者の意識から埋没させるかもしれないことに注意したい。
自然科学で応用数学の手法を取り入れて成功しているようなことは、扱いが悪いと大きな失敗を招くかもしれないし、浅学である私は特に注意したい。
「人文科学である伝統と手法」はすでに示したような18~19世紀における印欧語の比較言語学・歴史言語学や印欧祖語の再建などに代表される分野の研究史と研究行為を指す。
20世紀後半から言語学の現代的な発展・多様化が顕著となるにつれて様々な方法論が学際的に用いられたり、開発されたりしたが、「人文科学である伝統と手法」無くしてはそれらも無かろう。
実例としては、2019年5月16日投稿記事に示された「2019年、アメリカの研究機関UCSF Chang LabのチームがAIに言語発音とその発話の脳の電気信号の関係性を学習させて音声合成を行う技術の報告をした。彼らに音声学の専門家が関与せずとも音声学の知見が用いられた」ことである。
英語の音素・音価に関して国際音声記号 (IPA) を用いる手法などが、神経科学の医療的な技術開発でも見られるという。
音声波形・スペクトログラムの利用は音声学(音響・実験)の手法であるとしても知見とは異なろう。
この実例は言語学の外であり、広い言語学のうちではなおさら「人文科学である伝統と手法」が活かされている。



2019年7月から数学関連の学習として最低でも中等教育レベルを行った上で当記事を投稿する予定であったが、絵や音楽に関連する作業と調査(個人的な興味として地理・気候・植生などもある)に追われて、全く実現されなかった。
言語学への関心も遠のいてしまったので、この記事は2019年8月10日現在、明らかに下書き状態の範囲が広い。
7月20日~8月9日の20日間には、100文字も加筆編集できなかったろう。


2019年7月15日月曜日

科学・文学・音楽・美術 個人主義や自由主義のためのリベラルアーツと芸術運動

私がそうであるように…、改めて、ひきこもり(引きこもり・引き籠り)・ニートの人々はインターネット利用可能の限り、家で静かに学問や芸術をすべきであることを付言する。
「ひきこもり」定義は通念上のものと、個人の自覚によるものと多義的であるが、ここでは特に前者と後者の一致を重んじる。
親(経済的な保護者・扶養者)と一緒にいる者のうち、親と不和である者は、それでも忍耐強く・実直な努力をするとよい。
独居で生活保護を受ける者は、行政から就労支援を勧められても、機械的に処理しつつ、忍耐強く・実直な努力をするとよい。
ああ、実際に私のような努力をする人とその可能性ある人は、世間一般を概観するにつけ、千人に一人いるかも疑わしい。
とはいえ、改めて説明したく思う。

学問や芸術を行うこと、その目的を何にするか?
これはまた、各々の人生経験・人生観・死生観・価値観から決めればよいと思うし、まだであるならば好奇心の向く範囲内での努力の結果に自ずと見出せるとよい。
苦しみの心を自覚するならば、その解放を目的とすべきである。
つまり"id est"、自由主義・リベラリズム"liberalism"の原義であるラテン語"libero, liberare"を志向した手段とすべきである(辞書的な語源はフランス語libéralisme<libéral<ラテン語liberalis<liber<印欧祖語*h₁lewdʰ- "people, to grow"となるので私の思想的な語源になりそう)。
リベラルアーツ"liberal arts"とリベラリズムは直接関係しなかろうが、個人の意思や精神の表現の「手段と目的」という関係性そのものに通じる。
リベラルアーツとは、古典的な定義で3つの技能"trivium: grammar, logic and rhetoric(文法・論理・修辞)" + 4つの技能"quadrivium: geometry, astronomy, arithmetic and music(幾何学・天文学・算数・音楽)" = 7つの技能 (skills, arts; artの語源はラテン語ars) を意味しており、内容は表題にあるものと重なる。

しっかりと断っておくと、個人主義や自由主義は「ジコチュー(自己中心的)」とか意味論的和製英語での「エゴイスト・ナルシスト(ナルシシスト)」という意味で捉えられるべきでない。
…、両主義者のうちに半ば重なる例もあるが、ここで客観的にそうかどうかを論うべきでなく、単に「苦しみからの解放」などについて個々人が自ら斟酌できることを望む。
端的に、個人主義"individualism"は「互いの個性・人生を尊重することで自身の個性・人生も尊重されることを志向すること」、自由主義"liberalism"は「互いの自由を侵さないことで自身の自由も侵されずにあることを志向すること」と解釈してもらおう(全体主義の共産主義やナチズムといった反例を参照。相互に意味が異なる経済学や社会学や政治学での見解も参照すべきだがここでは詳述しない。まあ日本の和・仏教の中道によればそういうリベラルvs.保守のような西洋思想の両極端および和や中道それ自体への固執を排除してこそ平和・寂静・自由自在ということかもしれない)。
こう理解すれば、感情的に孤立を求める姿勢を個人主義とも言わないし、他人へ傲慢なふるまいをする姿勢を自由主義であるとも言わない(特に後者の姿勢については犯罪を自由に行うと牢獄に入れられるという古来の人間社会の特徴によって考えると、犯罪をしたがる者が不自由な牢獄で苦を感じずにいる道理が無いことでも分かる。脱獄は稀な者しかできないし苟も脱獄したところで心が安らぐ時が無かろう。そもそもどんな状況でも苦の無い者が犯罪をしたがる精神が有り得ない。荒唐無稽な可能性として外的なマインドコントロールくらいになる。芸術については特に風刺画などでの政治的な主張が芸術を利用した芸術の外の行為=外道であるかその当事者に得させる刹那的な幸福を精神的に良くないと私は思う)。
学問や芸術は、その実行者たちのうちに精神的な苦を強めて精神障害を抱えたり、自殺する人もいたが、彼らは彼らの行為・経験の結果にそうしたものである(弟子や家族や職業に恵まれていてもそうなる)。
一応、興味があれば実例を学んでもよいと思うが、結果的に「じゃあ自分はどう努力してゆこうか?」と省察する糧にせねばならない。

「苦しみからの解放」ということは、私が仏教の学習を通じて得た人生観である。
仏教に依拠するならば、芸術・学問・リベラルアーツというもの=才芸が強く介在すべきでないことは明確であるし、自覚もある。
例えば、私の仏教学習の初期に日蓮系宗派・新興宗教を学び、日蓮大聖人や彼が尊敬した高僧の一人である伝教大師の言葉にも「仏道修行者は才芸を用いるべきでない(あるいは…才芸に長けているからといってその人を尊敬すべきでない)」という意見がある。
無論、彼らも上代日本・中世日本において十分に才能がある人たちであったろうが、その彼らこそが言う。

伝教大師最澄の願文「自未得照理心以還不才藝(意訳: 真理を観る心を得ていないうちは才芸を行わない、ということが二つめの誓願である)」

日蓮大聖人の御書…頭に浮かんだフレーズの典拠不明。他に似たものには下記。
唱法華題目抄「但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず」
阿仏房御書「妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目宝塔なり、宝塔又南無妙法蓮華経なり。今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり」

2018年以降、一旦、その方から外れている。
それまでに私は、単に一人の人間 (個体 of ヒト属ヒト Homo sapiens sapiens) として真理の探究を志向していたのであって自身のアイデンティティをニート・ひきこもりであると仮定していなかった。
今は、ニート・ひきこもりである社会的な現実性の観点で芸術や学問の各分野を行い続けている。

因縁によって概念・名称があるが、それは仮名と見られる。当記事注: 当該記事に示されたように中論の24:18偈 = yaḥ pratītyasamutpādaḥ śūnyatāṃ tāṃ pracakṣmahe | sā prajñaptir upādāya pratipat saiva madhyamā || ”衆因縁生法 我説即是無
亦為是仮名 亦是中道義”の要約である点に注意。
私は「中卒・無職・ニート・引きこもり」とも名乗るし、釈尊は「釈迦族の人・瞿曇・ゴータマ"Gotama, Gautama"・聖者(牟尼・ムニ"Muni")・覚者(仏陀・ブッダ"Buddha")・応供(阿羅漢・アラハント"Arahant, Arhat")」という名を用いる。
私は自ら、言語学者とも名乗り、閑居求道者(げんごぐどうしゃ)とも名乗るが、人間という存在は、それらの肩書きに収まる存在であり、なおかつ肩書きに制約された存在でもない。
「仮名(仮に名付けられたこと)」に執着があるべきでない。

私には「中卒・無職・ニート・引きこもり」という仮名があり、または「シンガーソングライター・イラストレーター・フィロソファー・サイエンティスト・オカルティスト・ロマンティシスト」という仮名もあろうが、「仮名(仮に名付けられたこと)」に執着がないと考えたい。

関連記事
2018年1月21日投稿『道心あるニート・引きこもりの修行における障壁』
https://lesbophilia.blogspot.com/2018/01/neet-hikikomori-shugyo.html



表題にある「芸術運動」ということについて注記しよう。
「芸術運動 (art movement)」とは、ふつう、「芸術分野・芸術領域のうちでの (inside, within) 運動」を意味しており、「芸術行為を用いた (with) 運動(特に社会的・政治的・哲学的な傾向が強い)」ではなかろうが、ここでは両方の意味がこめられる(双方向・共依存・一体不可分)。
大衆音楽・マンガ・アニメなどの商業的な風潮・商業主義に疑問のある人々は、是非とも自己表現の手段として音楽・美術を行ってほしい。
このための簡単な考え方を示そう。

「大衆音楽の歌手・アイドルとその作品は商業的に生産されたものであり、歌手・アイドルが作詞・作曲を自発的に行う権能が無いか許されていない。シンガーソングライターは稀である。多くの場合に大衆音楽は自由な創作性から乖離した商業主義・拝金主義の姿勢である」

「某イラストレーターは『自分から企業に仕事を求めよ=自分を売れ』と発言して『インターネットで”お仕事募集中”である人』を愚弄したが、彼は給料のためのイラスト技能を自慢することになる。しかし独立的な人は他人から仕事などというものをもらわずに自給自足できる。某イラストレーターは自由な創作性から乖離した商業主義の傀儡である」

一昔前だとそうであるが、今はSNS等が個人主義・自由主義を支える結果があり、彼らの自己表現の自由度が上がっているという側面も、社会科学を行う者は考慮したほうがよい。
いずれにせよ、お金稼ぎよりも高く「自己表現の手段」が意識されたい。
常時これを意識せよ、ということでなく、単に必要な時、反省や他者への説明に顧みられよう。
そうして各種芸術行為をすることは、現代日本的な全体主義・商業主義・資本主義のもとでの芸術行為に一つのアンチテーゼを提示することになる。
「社会貢献・奉仕活動」といった旧来からある世間のしがらみと別の立場であるが、またしかし、こうした個人主義・自由主義の立場の芸術も、インターネットなどで公開される限り、同じく社会のうちでなされるものであることを忘れてはならない。

関連記事
2014年12月11日投稿『"手の届かないモノ"への空虚な夢想を断つ』
https://lesbophilia.blogspot.com/2014/12/blog-post_11.html

2016年3月16日投稿『SoundCloudの夥しきスパム"Spammers"の問題と、音楽の世界的な没個性化についての雑感』
https://lesbophilia.blogspot.com/2016/03/soundcloudspammers.html

2016年5月22日投稿『商業主義的アニメ・キャラクターの宗教性』
https://lesbophilia.blogspot.com/2016/05/idol-and-idea.html

2017年2月4日投稿『2016年末から年明け後もYouTube・外部サイトで多めに投稿』
http://deathmetal.blog.jp/arc/Jan-20-2017.html



また、インターネットでの言論に資するためには、言語的な技能 (trivium; grammar, logic, rhetoric) を用いて民間レベルの科学研究を進めてほしい。
「科学 (science, scientia)」とは、過去記事 (2019-05-16) に説明が済んでいるように、典型的な理系学問・理科や自然科学に限るものでない。
現代日本人になじみ深い「理系・文系」という二項概念は、用法が乱れて曖昧模糊であって日本でしか通用しないし、そもそも個人の意欲にならった学問の行為に無関係であるから重視されるべきでない。
どうあっても人文科学から自然科学まであらゆる科学の専門家・研究者に匹敵することは無かろうが、民間レベルで言語の自覚や科学知識の向上を資することは可能であるし、それで自身も世俗的な範疇で自信を持つことができる。

私は、この3年ほど、更新頻度を少なくしている傾向にあるが、これに色々な理由が考えられるにせよ、一つには「みだりに語らず、静かに・黙っているべきだ」という考えに従うためである。
インターネットで不必要に多くの情報を流して錯綜させるべきでないと思う(その行為が恥になるかどうかは当人の感性にもよるしここで断言しない)。
メディアリテラシーということを重んじるべきである。
学問で大事な姿勢は西洋の科学史などから縷々と示すこともできるが、ここであえて中国の古典から挙げるならば「尽く書を信ずれば則ち書無きに如かず(孟子・盡心下 引用: 盡信書,則不如無書)」、「学びて思わざるは則ち罔し、思いて学ばざるは則ち殆し(孔子・論語・為政 引用: 學而不思則罔,思而不學則殆)」というものであり、各種研鑽から科学研究まで、これを重んじるべきである。

論議・論争に関することも、おおよそ積極的な加担がされるべきでない。
精神において、勝敗や優劣の茨(泥沼)に入ることを欲すべきでない。
私のことを話すと、誰かを叩きのめしたくて活動をしているわけでない。
反対に、固定的な信念や目的を有しているとも断言しづらい。
自身の活動の意義などは、たびたび書いたことと思うし、ここで詳述しない。

2016年以降に私の言論行為は(曖昧な範囲の過渡期にはその傾向があるとして):
 私の意見であることの明示・事実提示などを峻別して、される。
 当面の目的が明瞭である状態で、される。
その限りで、個人主義や自由主義と、社会貢献と、精神修養との中庸の姿勢がある。

関連記事
2014年10月10日投稿『ニートの新世代「ネイティブニート」を提唱!』
http://masashi.doorblog.jp/archives/40633597.html

2016年10月21日投稿『事実認識の相違、思想や意見の対立でヘイト感情…世俗上の中観法』
https://lesbophilia.blogspot.com/2016/10/heretical-dogmas.html

2017年1月16日投稿『本来的・本質的に「優しい心・思いやり」が人間に備わっている事の理の論証 ~ 2つの真理』
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/01/dualism-of-truth.html

2018年9月24日投稿『動画「引きこもりによる芸術・宗教活動と人権・人道」』
http://masashi.doorblog.jp/archives/52483964.html

2019年5月16日投稿『科学的なこと(物質的な客観性と学者の精神・方法論)・学術の方向性』
https://lesbophilia.blogspot.com/2019/05/glossaria-scientia.html





起草日: 20190602

当記事ではニート・ひきこもりが行うべき学問・芸術を示した。
過去には宗教を主要にしていたし、今であってもその話はされてもよかろう。
生い立ちなどで負の自覚のある人たちでも、結果的に今も生きていることに恩恵を感じられるための芸術・学問・宗教である。
芸術・学問は先に仏教徒・高僧の言葉が引用された通り、才芸・利根の類なので、無理だと感じる人もいるであろう。
宗教としては、そういう人であっても、現世における各々の知能・精神に相応する学習や努力の後に良い果報が得られることを説いてもいるし、私の過去記事から仏教・キリスト教で説かれたことを色々と探してみるとよい。
殺人鬼アングリマーラ、先天的障害者チューラパンタカ、その他・・・。

再び人文科学と芸術の話が混ざるが、私の"Dominus Immensus (萌えの典籍の派生作品)"というラテン語歌詞・音楽動画を上記月間に「歌える中古日本語・翻訳版 (v1.01 based)」と「改訂版 (v1.02)」の2本で投稿した。
人間関係などに関しても、研鑽に関しても、忍辱・忍耐・堪忍を行ずるためには、「不可量であること」を思う障礙尊者になりきってみたい。



上記月23日に『ニート・ひきこもり学問芸術「紀要」 (事実上のVol. 2)』と題する動画を投稿した。



link: https://www.youtube.com/watch?v=L1bhNGgV_bE



上記月28日に日系アメリカ人2世の「マコト・フジムラ"Makoto Fujimura"」という芸術家のTwitter, ツイッター・ツイートを見た。
彼の父親は「藤村靖"Osamu Fujimura" (2017年没)」、私の一研究分野である言語学・音声学で先進的だった(というが藤村靖さんを当日知ったばかりで詳しくない)。
その次男(?)にあたる彼のツイートの一つをご覧いただきたい。

海外で学ぶことを望まない日本の若者について"Hikikomori nation"という一言で反応。

既知!論外!勿論。
彼の他のツイートでありえない、当該ツイートは2019年6月28日 (JST) 時点でリツイート・いいね数が0である(画像中に説明)。
私は(公然とツイッターを行わないし単発アカウントを作っても見苦しかろう)コメントを個人的なメモとして残す。
My comment: (字数に制限あり)
Masashi Yokono, he is a hikiko-
mori. He interests international
learning. Fields he does include
your father's field (phonetics).
(Methinks)
"Hikikomori" that you say/define
is not relating him. You Artist
should not mention social topics
and "hikikomori".

(What is "Hikikomori" that you say/define? Is he a "Hikikomori" that you say/define?) ※世人の混乱した定義"confusing definition"で私はひきこもりか否か?しかしそれは関係が無い。私はニート"NEET, Not in Education, Employment, or Training"であってひきこもり"hikikomori"であると自負する。世間の人がどう階級・身分を定義しても、私は全てに該当して該当しない。

国内の日本人同士でも修羅のようなレッテル貼り・カテゴリー化"categorization"・同質化・等質化・均質化"homogenization"(これらは他動詞transitiveの行為名詞nomen actionisで私は用いる)をするわけだが、海外で生まれ育った人であっても、似たような考え方をする。
芸術家とされる彼がそのように野暮な話題・言論を行うならば、彼は芸術家としての魅力と本質"nature, essence"を自ら損なう。"He is not artist or other professional, just... (neither X nor Yは排他や双数に関する表現なのでここには使えない)"
これは私の意見である。

以前もインド在住の日本人女性「メーダーみちか"Medha Michika"」という人物のブログ(記事は2015-03-28)で、似たような一文を見ている。
他にはオーストラリア・タイで幼少期を過ごして東京都知事選挙に2度立候補(私が埼玉県内に住んでいる2011年4月までに政見放送をNHKで視聴)した「谷山雄二朗"Yujiro Taniyama"」氏も、インターネットで「ひきこもり」を現代日本人全般への侮蔑に用いていた。
「マコト・フジムラ」と「メーダーみちか」と「谷山雄二朗」はいずれも余分な一言でひきこもりに言及したことになり、現実のひきこもり(英語だと無冠詞複数形hikikomori people)に無関心であると私は拝察する。
このような言説(匿名掲示板などの投稿に似る)は無粋であり、非建設的であり、実りなく、現代日本人の一部が持つ「海外に興味が無い」という気持ち(内心の自由・職業の多様性="freedom of thought, academic freedom, economic freedom"に該当するし村には村の伝統や生活がある)を理由にひきこもり認定をされることを望まなかろう(逆に海外どころか世界ありとあらゆる事物・概念に興味を持ちながら人生の目的を確固とするひきこもり生活の私は何者か?学校ならHarvard, MIT, Oxford, Cambridgeなどに限らず広く興味がある)。

彼らは無関心・浅学である限りに黙っている方が賢明である。
雑談さえ、名前のある活動の下で公的に行うべきでない。
i.e. 「自由"freedom"」の範疇にあるべきでない。

原因と結果の短絡的な同質化・等質化・均質化"homogenization"が、社会人・シャカイジン様のみならず芸術家・宗教家にも見られるので、時折、退廃的"It is decadent"と私は思う。
芸術家・宗教家を含む大衆は、確かにニート・ひきこもりの人権"human rights"が無いものとバイアスがかかるが、それは生物学的な矛盾・社会学的な矛盾・歴史的な過失 (cf. Homo sapiens, Capital punishment, racism, such as The Holocaust and Armenian massacre) を擁している。
日系人とその子孫に限らず、海外の人々 (people live in overseas) も、そういう傾向は有ろうことを、今までにインターネットの随所で見出した。

ネット上の傍観者たちは、ニート・ひきこもりに面識ある者が僅かであり、あまつさえ実際のニート・ひきこもりが科学的に定量的研究"quantitative research"がされていない現状で、誤った一般化"faulty generalization"などをし、軽薄な言及をするように見える。
社会にニート・ひきこもりは実在するので、社会人たちはLGBTやキリスト教国におけるムスリムなどのマイノリティを尊重したがることと同じく、ニート・ひきこもりを妄りに・濫りに比喩表現で用いるべきでない。
人間社会には、問題を濁す者が多きに過ぎる(万象のうちの単なる現象に過ぎない何かを問題視する者たち自身がその問題性を曖昧にする)。
実際のニート・ひきこもりは露出せず、当事者たちにニート・ひきこもりアイデンティティが無い(有ってもネガティブな感情に変換する者が多い)。
多くのニート・ひきこもりはサイレントマジョリティに属しており、私のような研究者は現れない。
当記事で語るまでも無く、種々の社会問題の理想的な解決などありえないからこそ、あらゆる階級とも異なる立場で私が研究する。
急進的解決は不可能であり、ニート・ひきこもりの定量的研究にも近道は無いからこそ、当事者の中でも唯一私が「隗から始めよ」として身近なレベルで行う。

ニート・ひきこもり諸氏は、人間文明が概して差別・偏見に満ちていると知り、他者よりも自身の心の差別・偏見を照らし出してみるとよい。
本文で既に挙がるリンクの一つに維摩経などを引用して私はこのことを説き終えている。
仏の心・浄き心では、そのように差別・偏見がこの世に満ちていないことになる。

私には目的が有るようで皆無でもあるが、一応、世間の愚かしい対立が和(やわ)されることを願って記す。
多くの社会人たちは何かを問題視してその問題性を忘却するし、彼らは全人類への慈悲やシンパシーなどを持たないし、私はそれらが事実であってもなくても構わない。
ニート・ひきこもりの自覚ある者たちは現代文明で経済的な庇護を受けて生きる限り、芸術や学問の行為を個人主義"individualism"として行うことを、私は当記事で推奨している。



当記事であえて言及しないでいた2019年5月に発生した川崎20人殺傷事件の犯人「岩崎隆一」さんがどうひきこもりであるか、私は説明しない。
同じように私が2012・13年にブログで取り上げた愛知県豊川市「岩瀬高之」さん、私が2013年から存在を認知していた外出して集団ストーカー記録を行い続ける愛知県岩倉市「岩間好一」さん(派遣社員時代から逮捕歴あり。2019年6月に交通事故に遭う)についても説明しない。
彼ら個人が何であれ、ニート・ひきこもり諸氏は、人間文明が概して差別・偏見に満ちていると知り、他者よりも自身の心の差別・偏見を照らし出してみるとよい。
本文で既に挙がるリンクの一つに維摩経などを引用して私はこのことを説き終えている。
仏の心・浄き心では、そのように差別・偏見がこの世に満ちていないことになる。


2019年6月14日金曜日

説明用の図の区分、文字配列図・数式・想像図・概念図(抽出図)・写真

目的別に図を用いることは、説明の理解のしやすさに貢献すると思う。
以下に、説明の目的としての図 (diagram, chart, graph, 表 table) の区分を示す。
それらは一般的であるよりも私による区分である。
それらの基準は外見的特徴(例は折れ線グラフ・図形・樹形図など)と少し異なる。



アート込み
文字配列図…その人が持つ概念"concept"とそれらの関係の抽出・抽象"abstract"であって文字や最小限の記号のみで表された。記号を含めても含めなくても文章表現のみでこの図の機能は可能でもある。文字の大小によって統計結果の提示に用いることもできる(cf. ウェブサイトにおけるタグクラウド 応用1例)。
当ブログでの例は2017-06-20画像4, 2019-05-16画像1

数式…数学・自然科学・精密科学で多様に用いられる。証明のために示されることが多い。この証明とは科学的な意味での証明と思う。一部の自然科学・精密科学は、当然、観測などの実験行為を求められもする。少なくとも、理論が確かであると承認されるきっかけになりやすい。

概念図…その人が持つ概念"concept"とそれらの関係の抽出・抽象"abstract"である。その目的性が数式とは異なるとして、それを私は捉える。つまり、証明のためというよりも説明の手段として理解を促す目的であろう。
当ブログでの例は2016-12-08, 2017-04-10, 2017-06-20画像3

modeling modeling parabola chart diagram graph table
概念的想像図…"concept"そのものではなく"conseptual"概念的なスキーマ的な提示である。それらの図はモデリング"modeling"の一種であり、概して近似的 (approximative, approximate; approximation) である。仮定や説明の手段などに用いられる。
当ブログでの例は2019-04-06画像4

想像図…その人が考えていたり認識・記憶しているたりする事象の譬喩(比喩)的な提示である。幾何学的な簡易性の無いイラストレーション"illustration"もよい。その人自身の満足によいが、その人自身でも表現に難があると意識した場合には自ら疑問を残す。うまく扱えれば、他者の理解や興味を誘う。
当ブログでの例は2019-02-03

Bibliotheca Polyglottaからの転用
写真…何かしらの事物の証明に用いられやすい。先の想像図の代用にもなる。その分、読み手は捏造や杜撰な利用に注意を要する。証明バイアス(造語)のようなことで、証明の意味を求めるような精神性にも注意を要する。ちなみに他の図を撮影した写真は、その目的で用いられる限り、写真でなく「目的別の図」に区分される。
当ブログでの例は2017-11-20, 2018-04-20



しかしまた、多用すると冗長な場合もある。
それは「オッカムのかみそり Occam's razor (オッカムの剃刀、節約の原理)」として、適宜に省くこともありえる。



このように概要を述べる私は、2018年以前に「必要な情報を言葉で示したり、外部サイトの詳細または客観的な情報を示せばよい。図を載せるにも外部サイトにあるものはそのリンク程度でよい」という考え方で、図を用いない形式の論文を主要にしていた。
これには、宗教学などで古典を閲覧し続け、そこで、基本的には図(圖)が無いことと、図がある場合も特殊であるか・特定の系統の文献に限ると判断していて同じように私もブログ記事・論文を作ればよいと思った経緯がある。
他方、2015年に始まる「日記メモ」では「証拠写真」のようなものを可能な限りに掲載する。
もともと(2010年から)顔出し動画投稿者のポリシーがあるためである。
2013年から本格化したお絵描きでも、「練習である」とされる絵を可能な限りにインターネットで公開する姿勢がある。

しかし、宗教学など人文科学の学問に関する活動では、私の研究対象の特性上、写真などを用いる必要性が無いことが多いし、図 (diagram, chart, graph)・表 (table) も同様である。
誰かの著作"Quaestiones et decisiones in
quattuor libros Sententiarum Petri Lombardi"
とされるものに載っている
その発言 (Wikimedia commons)
当然、必要性を感じる場面では、パブリックドメインらしい写真・図・表などの画像を引用(私が引用に利用した二次的な情報源も提示)する。

「必要性」と「多用すること」について、その「オッカムのかみそり」に関する格言で"Pluralitas non est ponenda sine necessitate (多数であることは必要性なくして仮定されるべきでない)"と言われている。
他に似たようなフレーズを載せる→"Numquam ponenda est pluralitas sine necessitate", "Entia non sunt multiplicanda sine necessitate"。
言葉を用いた者=オッカムのウィリアムという神学者 (William of Ockham c. 1287-1347)が「中世ヨーロッパのスコラ学の普遍論争の唯名論」に関与していたという前提知識が必要かと思う。
唯名論 (nominalism) とは、個々の事物=認知客体 (object) がカテゴリー化・普遍化される本質は無い(客観的な普遍性は事物ごとに定まっていない)としているそうであるが、彼自身が唯名論の人か私は判断しづらい。
彼の思想には、「明らかに存在すると分かるものや聖書に示された神の存在について過剰に(余計に)説明しなくてよい(要旨がSpade, Paul Vincent 1999 = ISBN 052158244X p. 104. にあると英語版Wikipediaに示される)」という見解があったろう。
インターネットで彼についての典拠と一次文献とを閲覧することに困難さがあるが、興味のある人が各自で調査すればよいと思う。

有名な発言や格言は、その帰せられ方の事実性に懐疑が起こりやすい。
先の発言が彼に帰せられるが、実際はそうでないと言う。
実際に誰かと言う議論がされると、特に、彼よりも20年ほど早く生まれたドゥンス・スコトゥスJohannes Duns Scotus とされる。
発言の典拠が何かといえば、私が調査可能な限りでは「誰かの著作"Quaestiones et decisiones in quattuor libros Sententiarum Petri Lombardi"」である。
内容は基本的に誰かの質問にドゥンス・スコトゥスが回答する、Q&A形式(問答)であるが、話題の発言については質問の箇所"Proponitur quaestio. - Utrum Angelus possit moveri in instanti?" (大文字Angelus = Angel of the Lord 主の使は立っている場所で動かされることができるか?と直訳) のだいぶ後になる。
Ostenditur non esse necessarium quod Angelus in instanti temporis discreti moveatur. Dico ergo ad quaestionem quod quia pluralitas non est ponenda sine necessitate, et non est necessitas quare clebeat poni tempus discretum mensurans motum Angeli, nam quicquid salvatur per illud tempus discretum salvabitur etiam per tempus continuum in communi, sicut enim oportet eos dicere quod si transeat in instanti, non potest immediate habere alium transitum instantaneum, ita potest poni si transeat instantanee in instanti temporis continui, ita quocl licet post illud instans possit habere motum continuum in tempore habito, non tamen potest habere transitum instantaneum irnmediatum; non ergo est inconveniens ponere Angelum in quantum participat conditionem corporalem, id est quae potest esse eiusdem rationis aliquo modo in ipso et etiam in corpore, quod etiam participet mensuram corporis aliquo modo: in quantum autem movetur localiter participat ubi, quocl est conditio et passio corporalis, aliquo modo eiusdem rationis in ipso et in corpore; ergo etiam potest mensurari mensura primi corporis moti.
 - 1912年の Commentaria oxoniensia 出版物から抜粋

後世に定式化した「オッカムのかみそり」を好む科学哲学などでの脈絡から、改めてその言葉"Pluralitas non est ponenda sine necessitate"を意訳すると「不必要に多くのこと(仮説を証明するための条件)を仮定すべきでない」となる。
私は、西洋哲学・科学哲学を学ばなくとも、宗教学を行う間に、似たような感覚が身についていた。

当記事の話題からすると雑学であるが、かのアルベルト・アインシュタインさん Albert Einsteinが「理論はできるだけシンプルにすべきだが、しすぎてはならない "Everything should be made as simple as possible, but not simpler." (1, 2, 3)」と発言したとして人口に膾炙する元ネタは、1933年7月10日"On the Method of Theoretical Physics (於オックスフォード)"での発言だという。
それは1934年の出版物に載る形で"It can scarcely be denied that the supreme goal of all theory is to make the irreducible basic elements as simple and as few as possible without having to surrender the adequate representation of a single datum of experience." (Philosophy of Science, Vol. 1, No. 2, p. 165., 英語版Wikiquote参照) とあるそうである。
人口に膾炙した後との意味の比較を各自で考えるとよい。



当記事の話題は西洋哲学・科学哲学ではなく、説明用の図の区分と図の多さの必要性であろう。
そのために、当ブログにおける回顧や、行為の展望がある。

当記事の趣旨を記す。

  • 目的別に図を用いることは、説明の理解のしやすさに貢献すると思う。
  • しかし、多用すると冗長な場合もある。
  • このように述べる私は、従来からそのように考えてきたが、最近では掲載を増やそうと望む。

Occam's razor pluralitas
2019年6月9日・作「説明には余分なるの図」



起草日: 20190529

途中の部分について本文中に挿入しなかった記述↓
※私は唯名論について仏教でいう空のうちの一面(空"suñña, suññatā , śūnya, śūnyatā"といってもパーリ〇空経MN121-122でのそれとか人法二空とか十八空とか色々な説明が可能なので本当に一面のみ)に比較しようとした。私は科学哲学用語と無関係な様態における神学者オッカムさんについて仏教やインド哲学の論理学・因明 (hetu-vidyā) の量 (pramāṇa プラマーナ) が一般には三量=現量 (pratyakṣa-pramāṇa) 比量 (anumāna-pramāṇa) 聖教量または正教量または至教量 (āgamaまたはśabda-pramāṇa) であることに関して「四量・譬喩量 (dṛṣṭānta-pramāṇa) などで詳細に語る必要が無い」という論者もいると書こうとした。因明のうちで陣那 (じんな・ぢんな dignāga ディグナーガ) さんは聖教量を否定した(成唯識論本文抄に云く「陳那門人師資相順故亦不立彼聖教量」)ということは、科学哲学でのオッカムのかみそりと結び付けられるべきか(人間の受動的な知覚された物事の理解や信用ではなく、やはり学者や修行者らが科学・宗教などの目的は何であれ真理を求めるときの能動的な懐疑が関係するようである)。11世紀以前の漢訳文献を探して頻出しない語句もあると分かったが、私の調査方法の問題かどうかも判然としない。この調査を放棄した。

2019年5月16日木曜日

科学的なこと(物質的な客観性と学者の精神・方法論)・学術の方向性

人文科学 (humanities, human science) や社会科学 (social science) における、自然科学 (natural science) と等しい「科学性」は何か?

何らかの発言・行動は、それが五感(五官・感覚器官)で認知される限りに「された事実」があり、その客観性がある。
その範疇で物質的な証拠によって客観的事実であり、科学的な道理がある。
思考についても、間接的に=発言・行動などから五感で認知できるし、直接的には他者が五感で認知することのできないもののようだが、現代に限って言えば脳波・脳の電気信号の観測・検出(ただし機器の誤作動や改竄を除く)などによる客観性がある。
人の発言・行動・思考・精神は、その範疇で物質的な証拠による客観的事実(論理学でいう真 true)であり、科学的な道理がある。

今の話は量的な"quantitative"研究を意味し、科学の一つの特徴である。
これらの科学的な道理が研究された結果に、人文科学や社会科学の科学性を提示できる。

他には、研究対象の間に本質的な優劣が無いと理性的に意識する研究方法や、本質的な優劣が有るように説明することの無い理論も、科学の一つの特徴である。
研究対象の間の優劣は、個人で自由に想像する・決定することが可能であるのみと思う。
任意の物体(石材など)・物質(分子など)の物性 (physical property, quality) はもちろん、任意の都市の人口・面積・人口密度 (population density) や、任意の人物の功績・業績などは、その数量や事実というものが同カテゴリと人々がみなす事物の間で異なる(大小・多少=多寡など)ことが当然である。
数量を統計にする・事実を提示することはできても、そこから優劣をみなすことは科学の題材に含まれない。
社会科学などで、民衆などが何らかの事物に優劣の感情を抱いているということは、当然、社会科学の題材に含まれよう。

科学の実行者が持つ精神と方法論にも、人文科学や社会科学の科学性を見いだせる。
科学の実行者は、「学者 scholar ・哲学者 philosopher・科学者 scientist・研究者 researcher」と呼びえる。
客観性に関する疑問、自己反省、好奇心・探究心といった精神性がある。
それが時には時代の趨勢に抗うような・左翼的な姿勢に見られることも有り得るが、もしその人の感情や衝動が起こす所であれば、疑問の解決などの行動・探究がある。
他人によって曲げられること・他の事象によって風見鶏のように左右されること、それらが無いように一所懸命の努力もあろう。
そこに、相応の紆余曲折・内心の苦労・葛藤を伴う。
これはメンタリティの話であって人による差異が大きいが、概ねこう見える事績は科学史や技術史から探してみるとよい。
近世以前に古典的なキリスト教神学の観点で望まれない傾向にあった人(管見の限りでは地動説で有名なコペルニクスさんやガリレオ・ガリレイさん)、近世以後に学校教育の通念から外れるように思われた人など、色々といる。
科学者とその共同体がキリスト教神学などから離れていった後であっても、時代ごとに主流の見解と相違する見解が起こり得るが、この例を示すとかなり些末に思われそうである。



科学前史=自然哲学 (natural philosophy, philosophia naturalis) は何か?
現代文明の人は、科学史を見ても見なくても、常に科学理論や技術が進歩し続けていると考えるであろう。
しかし、「人の努力がされてきた」という観点では、昔から変わらないし、どの時代における研究成果も等しいと言える。
ピタゴラス(ピュタゴラス 紀元前6世紀に活躍)やアリストテレス(アリストテレース 紀元前4世紀に活躍)の時代には、その時代に相応の価値観と方法論とで自然哲学・自然学が行われ、彼らの成果が当時であれ後世であれ評価され、それにならった研究が人々に継続される。
以後も人間の学問・研究の行為は、その人々の間の意識が異なっても、その時代に相応の価値観と方法論とで行われた場合に相応の成果が評価されている。
自然哲学という用語は、アイザック・ニュートン(17-18世紀に活躍。近代的な科学への過渡期を代表する人物)の著作の題"Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica"に、なおも見られていた。
たとえ自然哲学から即物的な性質・客観的考証を専らにする自然科学として独立するようになっても、人間(人々 homines, ヒト Homo sapiens sapiens )が行う限りに人間(ヒトで構成される世間)で評価する。



cf. 科学的方法 https://en.wikipedia.org/wiki/Scientific_method
科学のヒエラルキー(階層)と関連事項 https://en.wikipedia.org/wiki/Hierarchy_of_the_sciences
科学理論 一往の「再現性 reproducibility」 再往の「反証可能性 falsifiability, disprovability, refutability(その提唱者カール・ポパー 1902-1994は科学哲学の第一人者であって自然科学の実務者でないがそういった立場からの研究で科学自体へ見解が示されることも大事であると留意されたい)」 i.e. 「不確定性 uncertainty」 (研究対象についての性質を意味した概念名称・科学哲学の概念名称などが混在するが参考までに記した)
メタ科学(メタ研究、科学を科学する) https://en.wikipedia.org/wiki/Metascience_(research) (およびメタ理論 https://en.wikipedia.org/wiki/Metatheory)

科学に大事な疑問精神は、仏道における菩提心 (bodhicitta) に比するものと私は思う(信心 śraddhā, saddhā よりも)。
このようなことは科学哲学であって人文科学・社会科学同然であるため、私が語ってよい。
アドホックな仮説 (ad hoc hypothesis) といった「その人の信じる見解・学説を自ら擁護する・保存を試みるための仮説」は、「先に何かを肯定しようとする立場や意図でなされるもの」である。
その精神は、科学の発展を支えてきた疑問精神と異なるものと考えられている。
もちろん、私はアドホックな仮説とされる方法や研究についても結果的な研究の進展に繋がることもあろうし、全否定すべきだと思わないが、科学者の精神論としては、基本的に有り得べからざることとなろう。
仏道における菩提心や宗教の信仰全般に例えると、一部の科学者は不愉快に思うかもしれないが、人(命あるものたち)が自ら行くべき道を行くときは、何の分野でも根本的で大事な精神性が有ろうと思う。
それも、具体的な成果を上げた後の結果論だと言われようか。
何かヒューマニズムの目線で捉えるならば、疑問精神の他に、科学は、文明の発展へ貢献する心とか医学での人々に対する愛情・慈しみ・哀れみのような心が必要であると言う人もいると思う。
これも仏教でいえば、慈悲や利他の精神であろうが、それも修行者個人の福徳のための手段として必要であるということが上座部仏教でのスタンスであり、大乗仏教ではもっと高次の=仏の目的としての次元で重要視される(現代の仏教で在家信者が功徳やプンを積むと言って行うことは現世利益が望まれる傾向にあることに注意)。
科学の発展と「文明の発展へ貢献する心や医学での人々に対する愛情・慈しみ・哀れみのような心」の関連性は、もっと限定的であるし、科学哲学というよりも倫理観の話に近いと考えてもらいたい。

方法論が科学的であれば、宗教も人文科学・社会科学のうちの宗教学として、科学である。
キリスト教などの一神教には「この世(万物・人類・動植物)は神が作った」という起源説・創造神話があることは聖書(旧約聖書 Old Testament・タナハ Tanakh)に赫赫明明である。
たとえ教義が一つでも、そのような創造論にはいろいろな信じ方があろう。
神の存在と世界の起源とは、多くの信者が各々の人生経験などから導かれた範疇での「素直さ」のままに信じる。
賢い人には賢い人の検証によって一神教の創造論を信じることができ、そう信じる限りには科学的手法の有無によらず宗教的である。
ただし、「創造科学 creation science」の主要な説を私は、聖書の言葉に対して自然科学の説を牽強付会に用いる疑似科学であるとみなし、神学としても聖書が書かれた意図やモーセ・イエスらの精神に背く異端とみなし、宗教・信仰の補助知識としても気休めであって即物的な証拠が説の妥当性を左右する点で不安定とみなし、否定的である(この詳細については当ブログ2018年4月20日記事にある)。
このように手段に科学性が求められ、個人の決定意思に宗教性が求められ、科学・宗教が取り扱う事物は、それが神であれ宇宙であれ生命であれ、科学や宗教で一括りできない而もどちらも尊ぶ概念である「自然 (しぜん・じねん) "nature, natura"」ということになる。
様態論ではあるが、取り扱う事物や研究対象は何であれ「どのように人が用いるか」により、科学の題材にも宗教の題材にもなるという場合があると知られたい。



多方面への科学性の伝導

自然科学の系統の分野から、人文科学と社会科学へ、その科学性の伝導がある。
科学性の伝導により、合理主義的な人文研究がその度合いを高められてゆく。
キリスト教神学では高等批評・本文批評 (historical criticism, textual criticism) などが発生して普及するし、アジア各地の仏教学門(学問ではない)では近代的な仏教学が西洋から導入された。
みな、文献があるという事実とその作者がいるという事実を前提とした文献学的な立場 (philology) を重んじているであろう。
キリスト教も仏教も、もともと、そういった傾向が伝統的な学問・学門のうちにあったが(例えば仏教では大乗荘厳経論で有名な般若経=大乗非仏説について西暦6世紀以前からインドなどで議論されていた。中国では11世紀以前に天台宗などが像法決疑経・提謂波利経などの偽経説を議論していた。日本では13世紀以前に日蓮聖人などが大梵天王問仏決疑経などの偽経説を主張する際に中国の古い経蔵=貞元録・開元録にそれらが無いことを示していた)、西洋はルネサンス期に・日本は江戸時代に不干渉で合理主義的な人文研究をし始め、西洋は17世紀以後に・日本は19世紀以後(近代)には明らかに文献学が行われる。
伝統的な宗教には、その伝統的な学問・学門と並行して近代的な人文科学の手法を行う者たちがいる。

近代以後の日本の国語学は多かれ少なかれ西洋から影響を受けた面はあるが、日本語のためにローカルな用語の使用・造語などがある。
国語学に先駆ける江戸時代の国学は、日本の言語に神道の神秘性を見出していた。
江戸時代の国学の初期の人物である本居宣長さんの複数の著作に見られる発言を要約しよう。
彼は「日本語は本来に濁音(現代の音声学でいえば阻害音系 obstruent の有声音に加えて半濁音と言われる /p/ 唇系の無声破裂音)・促音(阻害音系の長子音 /Q/)・撥音(鼻音の長子音/N/)などが無く清音(阻害音系の無声音に加え有声音では流音など)のみを発していた。リズムが規則的で優雅であった。これが和語(やまとことば)であり、人間が話すにふさわしいことで唯一の存在であった」といい、美的価値や民族主義的思想が大いに表れていた点を注目すべきである。
彼であっても漢語・梵語など外国のもの(彼の師にあたる賀茂真淵も「国意考 c. 1765」で「天竺=インド・をらんだ=オランダ・北国=日本」の文字が漢字と比べて著しく少ない字数に少ない画数の字が占める文字体系であり天竺は五十字で多くの仏説を伝えたという話をしていた)を可能な限り比較して検討したうえでその話をしていたが、現代の人文科学から見ると多くの問題点を見つけることができる(言語学・宗教学における一例としては先のリンク先記事の本論や余談を参照)。

江戸時代は日本版ルネサンス(ルネッサンス)のごとくに、医学・数学・文学に相当する学問が進んだと同時に、人文系学問でも国学・仏教学門(大乗各派が小乗とされる律 vinaya などに関心を向けた。阿含経・大乗経の文献整理や梵語悉曇の研究)・漢学(筆者は詳しくないが儒教・道教・朱子学などか)で合理主義的な研究が盛りつつあった。
西洋のルネサンスは14世紀ルネサンス(14-17世紀)が代表的であって語源的に"Renaissance"はフランス語で"rebirth"のような意味を持つ通り、中世キリスト教文化から古代ギリシャ文化への再生や回帰と形容される。
しかし、やはり分野ごとの恣意性(何かを批判・擁護するための無理な説明の多さ)は付随しがちであった。
科学における合理主義 (理性主義 rationalism) の目で見れば、他者批判はそれもそれでよいことだが、彼をはじめとする江戸時代の人文系学者らの批判精神が不十分であったことになる(批判 criticism 自己批判とは単なる否定・非難・あら探しや心理学・精神病理学でいう病理的で自他の加害につながる感情作用のことではなく学問のための内省の手段を意味する)。
仏教徒が他の仏教徒に向ける批判(浄土系VS日蓮系の宗論のみならず江戸中期真宗大谷派の僧侶とされる法幢さんが中国法相宗の慈恩大師基さんの説を批判・修正するなど色々と見られる)は仏教における自己批判の側面もあるが、やはり反面にそれら事跡の多くが仏教徒各自の宗派や個人の信念や理念に追従する結果の行動だ、と私は見る。



人文科学と社会科学に科学性が伝導されて合理主義的になっても、現代では人間の主観性に関する客観性が重んじられることも多くなる。
人文科学で言語や宗教の多様性を認める・差異を尊重する傾向はある。
言語学について考えると、比較言語学・歴史言語学の関係に対照言語学がある。
現代語は大小さまざまに分岐して方言も多くあり、一見些末なものがあるように思われるが、研究者個人の思いによって広く研究がされる。
個別言語とみなされる存在(および話者の集団)同士の個性はサピア=ウォーフの仮説に、全ての言語使用の刹那的な特性はソシュールさんがアイデアを与えたとする記号学(または記号論。日本語ではこの順にsemiology, semioticsの訳語として用いるがことが多い)に示され、おそらく言語学者の卵はそれらの仮説や理論を学んでいるであろう(余談だがこれらを学ぶ以前に私は仏教学で中論の二諦・大智度論の四悉檀・天台宗の三諦や釈道安の五失本・鳩摩羅什の伝記にいう翻訳論・玄奘の五種不翻を学んで同様の考え方を持った。Dominus Immensusラテン語歌詞と元ネタの自作宗教文学についても参照。それらは仏教の布教や自己の修行や哲学的な見解などの異なる目的のもとで言われているため言語学と同一視しないにしても広い理解の一つとして参考にしてもよい)。
大中小の異なる規模ごとに入れ子状態の主観性(i.e. 共通主観性"consubjectivity")が窺える。
言語学の語用論 (pragmatics) や認知言語学 (cognitive linguistics) や心理言語学 (psycholinguistics) は、現代語の発話やコーパスなどを考察の対象にできる。
様々な研究成果は、死語 (extinct languages) や原始の言語の推定にも繋げられよう。
宗教の教義の発生発展や勢力の離合集散を説明した私のブログ記事もあるので参照されたい。
無宗教の人や元宗教活動家・元信者の人が宗教を弁駁する行為についても触れている。
2017年4月21日投稿『形骸化した団体は内側から乱れて分派し、ほとぼりが冷めると寄り添う離合集散の道理』
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/04/harmony-between-sects.html
言語集団も宗教勢力も、個別の差異はあるが、人間における普遍性に関連する。

社会科学でも、政治・法律・経済で扱われる任意の個人や集団における精神・心理についての科学的根拠(証拠・エビデンス)の類が有っても無くても、「発言や行動が存在する事実」に関する客観性から精神を尊重する傾向がある。
しかし、社会科学の分野には出版・言論における売文家や御用学者が多く、私はその恣意性(e.g. ある意見や声を多数派・少数派と学者各位の判断で前提を作って論じるようなこと)を見る。
他方、脳科学や心理学や精神医学などのさまざまな観点で証明されるべき精神・感情・心理現象があり、まだまでこの倫理道徳らしい方面での課題が多いといえる。
学問研究からの社会的運用として、立法・司法・行政などは実際に起きた犯罪の例=どのような経済層などの背景を持つ者がどのような状況から何の行為に至ったかなど、鑑みて法令や条例や社会保障の予算配分を決めたり、個々の刑罰を決めたりする。
応用分野は、社会科学系も自然科学系も極めて倫理道徳を重んじる必要がある (cf. ES細胞とiPS細胞)。



現代日本語の語彙「カガク kagaku」…科学と化学

「科学(サイエンス science)」と「化学(ケミストリー chemistry)」の紛らわしさが、その発音にある。
両単語は、示すまでもなく、「カガク kagaku」として現代日本語の発音で共通する。
そのことは、日本の人々に、科学が化学であるようなバイアスをかけている。
「科学」と「化学」を同音で把握する日本人が日本人に対して、ステレオタイプとして科学者の外見が「白衣(オプションでメガネなど)」であるように定着させてきたろう。
これは言語音声に関する主観的認知とそのバイアスに関する話であり、認知言語学に関した一見解になる。
kagaku japanese words science chemistry
▽ これはどんな科学かな?
大学生と化した女児Sによる
科学者コスプレの絵+発音の図

言葉における科学性を示したいが、まず音韻論 (phonology) について話そう。
「科学」と「化学」とは、共に現代日本語の一般的な漢字発音で同音異義語 (homophones) となる。
これが歴史的にもそうであるか、他の言語でもそうであるか、検証してみたい。
以下に、両単語の字音仮名遣い(歴史的仮名遣い)と拼音(ピンイン Pinyin)とを示し、対応する音素 (phoneme) も表記する。

「科学 (科學) カガク・かがく」 /kagaku/
字音仮名遣いで「くわがく(くゎがく)」 /kwagaku/
拼音"kēxué (クーシェーまたはクーシュエー /kʰɤ ɕɥ̯œ/ トーンは第一声・第二声)"

「化学 (化學) カガク・かがく」 /kagaku/
字音仮名遣いで「くわがく(くゎがく)」 /kwagaku/
拼音で"huàxué (ファーシェーまたはフヮーシュエー /xu̯ä ɕɥ̯œ/ トーンは第四声・第二声)"

※参考までに、宇田川榕菴(宇田川榕庵)の「舎密開宗 (刊行年代は1837-1847)」は、「化学 chemistry」に相当する西洋の語句(一般にオランダ語 chemie とされ 現代の発音は /xemi/ ヘミに近い音)を「舎密(唐音: せいみ 参考までに拼音: shèmì シェーミー第四声・第四声)」または「舎密加」と音写している。明治時代の官庁に「舎密局」もある。「舎密」は今日の日本語で用いられていない。

このように、両単語が、日本語では現代発音でも字音仮名遣いによる古典発音でも、同じ音素を有している=同音異義語である。
しかし、両単語が、中国語ではそうならずに区別可能である。

「科学」も「化学」も、明治時代から学術・日常の範囲で日本語に取り込まれた語彙であろうし、けだしどちらも明治訳語であろう。
前者が仮に中国古典・漢籍に文字列があったとしても、英語"science"に相当する何らかの西洋の語句の訳語としては幕末~明治期の日本から用いられたろうし、後者は和製漢語(日本での造語)であったろうと私は推定する。
しかし、科学と化学が漢音読みで「カガク(クヮガク)」という同音になることが分かっていたらば、あえてどちらも採用する発想が不可解である(そこで調べなおすと化学の方は中国が先にchemistry相当の語彙として造ったという説を確認できた。もしそうならば中国に同調したか)。
興味のある方が各自で検証をするとよい。



現代日本語では、両単語の同音である状態を鑑みて、それぞれ「カガク・ばけガク(かがく・ばけがく)」と読むことが暫定的に求められる。

もしくは、明治~戦前期に「化学」の音読みが、「化」の呉音で「け(as in 化粧 けしょう keshō, 化身 けしん keshin)」の「けがく kegaku(字音仮名遣い: くゑがく kwegaku)」と作られていたらば、現代語で同音異義語とならず、その紛らわしさも無かったろう。
もし現代語発音で「化学 ケガク (クヱガク)」と読むような翻訳をすれば、「科学」と同音異義語にならないのみならずケミストリーの当て字(または音義対応 phono-semantic matching, jawp: 音義対応翻訳という語はWikipedia発祥の便宜的な翻訳語) に見える上手い訳でさえあったはずが、歴史的にそうならなかった(英語chemistryに当たる日本語を「舎密」と「化学」の決定的な動議が明治18年にあったとされるが化学フォロー側からこの読み方が提案されたか不明)。
「化学」を「ばけがく」と読むことは湯桶読み(ゆとうよみ・訓音の順)であり、「けがく」と読むことは明治訳語・和製漢語における呉音排除に悖る。
他方、湯桶読みのような訓音ハイブリッド読みも、呉音読みも、明治訳語・和製漢語には多く見られる(e.g. 病 呉音: ビョウ 漢音: ヘイ 病理ビョウリ⇔疾病シッペイ)ので、許容されてもよいはずである。

明治以降、果たして漢音・呉音といった漢字音の系統区分が、どれほど活かされたか?
その上で慣習的な表記を選択する柔軟さが、どれほど行使されたか?
同一概念の英語・ドイツ語など西洋言語での名称が同音異義語でないのに和製漢語でのみ同音異義語になる問題性が、どれほど鑑みられたか?
日本語の語彙論 (lexicology)・音韻論 (phonology) に限っても、その科学性を重んじるべき事項が多い。

大多数の日本人は、言語における科学性(知識の宝庫である性質・知的に用いられる性質, scientiaからscientificityのような英語の意味を筆者が恣意的に定義する)・合理性(歴史的な正統性・社会的な実用性)を顧みない。
「言霊・ことだま kotodama」と言っても言わなくても、歴史的に日本語族 (Japonic languages) の人々はそのようであったし、別に構わない。
※たとえナショナリズム・保守主義などが民間レベルに適用されても、朝鮮・ベトナム・インド・旧ソ連の国々が自国の言語改革をしたレベルのようなことを日本上下万民は全然できなかった。正書法 (authography) である「当用漢字=当面用いる漢字」はユーラシア諸国のハングル・チョソングル・クオックグー・アルメニア文字・ジョージア文字などと比べて酷い改変である。現代中国の簡体字でさえも一部に古形へ回帰した例がある(e.g. 「云」は元々「雲 cloud」を象った字であったが「言 to say」の意味の仮借字となり、簡体字で再び雲を意味する。「从」は日本新字体で「従 繁体字・旧字体:從」だが簡体字で古形に戻された。ともに甲骨文字=3,000年以上前からある)キリル文字からラテン文字に変えた国はアゼルバイジャンなどあり。言語改革にはヒンディー語などが古典語・サンスクリットから借用するなどあり。科学的な話だと思われなくなりそうだが、これは自ら言語の歴史を軽んじ、他の言語とも歩調の合わないようなことをし続ける日本国・日本民族の悪しき宿命によるものと私は思っている。和製英語・各種スラング類も既成事実の文化として肯定的に見ることができるが、言語の科学性を重んじた場合は最も日本語に根深い悪習と思う。それで社会的には小学生の教科として英語必修化をしても、グローバリズムに適わないばかりか、自他の言語の尊重といった精神性に寄与しない。精神文化や自他民族伝統などに無頓着であったり、無節操である民族のうちから、自然科学分野で割と優れた成果を上げる人がいることも私は知っている。これは言語・宗教を高度に研究してきたヨーロッパの人々が近代科学を生んだり発展させたことと似ない例として考えることも可能である。無論、当記事で既述の通り、江戸時代の国学・仏教学門などはヨーロッパの近世~近代に行われた文献学・言語学・神学・インド学・仏教学の研究に如(し)くと思う。その無節操な民族のうちから西洋的な人文科学に繋がる研究で傑出した者が現れる。私はプロパガンダのみを書くための理論を作る気ではないため、雑駁だと思われそうでも知る限りの情報を示しつくす所存である。



用語「科学」についての他の考察

語用論 (pragmatics) の観点で「科学」および「サイエンス science」を考えると、一般に生物の写真や生態に関する話題や宇宙と天体の写真や3Dイメージなどを「科学 science」の象徴のように用いる例に重なる。
こういった用法は、「科学 science」が取りも直さず「自然科学 natural science・理科系学問」である意味を明示する。
そうなると、これは語用論というよりも意味論的 (semantic, semantics) である。
事実、英語の辞書(e.g. En. Wiktionary, 他にOED類やCALD・ケンブリッジの英英辞典類もそうなのかといえば検証しづらい)には、そういった意味も"science"のうちに定義されている。
一般通念や常識のうちで、「科学」即「自然科学」という見方は承認されている。

単語の語源論 (etymology) については古文献の例示をしない間は私が話すことを好まないでおり、ラテン語の"scientia"が自然哲学に限られない広範の知識や学問 (knowledge, discipline) を16世紀以前に指すことが多かったという感性に随う。
しかし、今は専門的な言い方や詳細な説明を避けることはできない。
英語の"science"は動詞 scire の現在能動分詞 sciens の中性・複数・主格 = scientia, その古フランス語やアングロ・ノルマン語のような古いロマンス諸語の言語を経由して英語に借用されたものである。ラテン語の動詞 scire (語形変化の例: scio 能動態・直説法・現在時制・一人称・単数) は、何かを「知る・理解する・それに対する知識を持つ状態を得る」という意味である。
今の英語であっても"omniscience"(omni- + science) といえば全知全能の「全知」に当たる意味である(形容詞に omniscient もある)。
ラテン語訳聖書でいくらか用例を探してみると、"scientia"は多めに見られるが"omniscientia"はほぼ無い(分けられて文法的な表現が多い。数少ない用例に見えたローマ書15:14は"omni scientia"である他はヨハネ書18:4の"sciens omnia"のような表現も多く、文脈も予想しやすい神への称賛としての用法が見られづらい。"misericordia"のように存在するものと思っていた)。



ちなみに、日本で「物理学」というと、英語の"physics"(フィジックス, 原音よりでフィズィクス 学問の名称は-ics不可算名詞。physic フィジックと区別される。物理的なことの一般的な形容詞はphysical フィジカル) であるが、この英単語はラテン語・古代ギリシャ語に辿り着く。
その英単語に見られる学問名称の語源を見ると、「全体で部分を表す比喩(日本の論文で換喩・メトニミーや提喩と言っているがはっきりしない)」のような現代的な意味が感じられる。
英語に継承される以前のラテン語"physicus, physica"や古代ギリシャ語"φυσικός"(ピュシコス・形容詞のみ。φυσικήは古代ギリシャ語でその女性形だが現代ギリシャ語で物理学を意味する名詞であって英語からの意味借用"semantic loan"か。古代ギリシャ語の名詞ではφύσιςもある) は、自然に関する意味合い (形容詞: natural 名詞: nature) が主要である。
※単語の使用例はどうか?古代ローマの古典ラテンで書かれたキケロー著 De fato に"Non ita loquimur, ut physici"というフレーズがあることが、当ブログの2018年8月8日の記事に示される。この"physici"は、英訳の一つ(by H. Rackham)において「自然哲学者たち"the natural philosophers"」と翻訳されている。また、古代ギリシャのアリストテレースの著書「自然学」の英題・英語名称が Physics (原題も同様にΦυσικὴ ἀκρόασις) である。

しかし、英単語の場合は、一般的に「物理的なこと・物理学」の意味に限定されるのである。
早くても西暦14世紀以降にヨーロッパのどこかで、"physicus"系統の語彙にその意味が強く与えられて用いられるようになったろうか。
他の比較できる例には"physica"の派生として英単語の"physician"(フィジシャン、フィズィシャン。医者・医師または内科医) がある。



他には「科学技術」という言葉の存在も考えてみたい。
政治・経済などの文脈で「科学技術」という言葉は多く見られるし、ニュースなど世間一般でもそう言いつつ、簡単に「サイエンス(cf. カルチャー、スポーツ)」ともいう。
この言葉はもともと英語の"Science and Technology (Science & Technology)"という表現から借用したものと考えられる。
日本語では「科学技術」として四字熟語のように取れる形で用いられるが、英語に"and (&)"が用いられるように、「科学」と「技術」とで別概念の並列複合語"enumerative compound"である。
並列複合語を解して「科学と技術」、「科学・技術」となる。
別概念が並び称される際、このような用法からは、次第に「科学=技術」という同位(同格・等位)の概念や「科学的な技術"scientific technology"、科学による技術"technology with science"」という修飾関係に感じられるようになるし、一般大衆の中にはそう思う傾向もありえる。
これも「科学=化学」のように、バイアスの例であろう。
標準的な日本語の高低アクセント (pitch accent) において、「科学↓技術(カガクが頭高)」は並列複合語のように聴こえたり、「科学→技術(カガクが平板)」は修飾関係の複合語のように聴こえたりする(前者の発音は一般に用いられないので区別したい者が意図的に用いることを期す)。

技術とは一般的に、工科・工学"engineering"系統の分野であり、大衆の日常生活はそこから多く恩恵を受け、いわば科学研究の応用"application, applied"であるので後発的である(科学と違って技術開発には「物性などから目的に適う優劣を人間が判断する作業」が含まれる。構造的には技術も現代の科学も倫理に縛られやすいが)。
なまじ近現代においては科学研究の手段に工学的な技術の道具があるから、双方向・相互依存関係でもあるとも考えられる。
両者の境界が曖昧である現状(統一される?)に、「科学技術"Science and Technology"」という呼称は便利である。
ただし、技術という工学系統の話題を除いても、結局、「カガク、サイエンス」といえば「自然科学」の意味・用法が強く残ると思う。
言うまでもなく、「科学」の領域は広くも狭くもあり、その用語には細心の注意を払いたい。



大学の人文系・文科系の学部「文学部"Faculty of Arts"」
漢字「文」(the letter 文 bun, wén) の一用法

文学部という名称の「文」は、もともと英語の"arts (アーツ、複数形)", ラテン語の"ars (アルス、単数形)"に当たる言葉を指したろう。
英語の"arts"は、視覚芸術・美術"fine art"に限る必要性が無い。
トリヴィウム(trivium トリヴィアムとも)、リベラル・アーツ"liberal arts"ともいえる文章的な技術・技能 (writing skills; grammar, logic, and rhetoric) を指すことが"arts, ars"の原義に近かろう。
英語での名称の幅を拡大すれば、"humanity, humanities"も含まれよう。
「文学部"Faculty of Arts (and Humanities)"」は、"arts, ars"の学部"faculty"ということになる。
決して「文学"literature"」や「文化"culture"」の学部ではない。
このように英語など西洋言語での名称を介して考えると、人文科学の手法に近づく(それでさえ誤った前提や概念認識によって行われれば疑似科学・疑似人文科学になる側面も否定できない)。

先述の通り、「文学部」や「人文」という「文」の字の用法は、英語の"arts"に当たる言葉とその概念に由来するであろうが、これは明治以降の日本人が和製漢語・明治訳語のように用いたことが起源であろう。
その用法は中国の古典・漢籍 (Chinese classic texts) に見られないので、由来することも無い。

ところで、2014・15年に私(当時17・18歳)が日蓮正宗系の学問をしていて「明者は其の理(り・ことわり)を貴び、闇者は其の文(もん・ふみ)を守る(依義判文抄より)」という大石寺26世・日寛上人の言葉を見たとき、「理系・文系」の人を連想してしまった。
これは江戸時代の仏教徒・僧侶の言葉であって「文・理」は仏・釈尊や日蓮大聖人の教説の額面的な意味と真意(文底秘沈)とを区別したものであり、現代日本の「文系・理系」の区分と関係ない。
※原典の依義判文抄には「理」の字が「釈尊や日蓮大聖人の教説の真意」の意味で用いられた箇所が無いようでもある。更に「文・理」は三証のうちの「文証(もんしょう)・理証(りしょう)」のことでもなかろう。「依義判文」という題号の語彙における「文」に対比した「義」を、その「理」の同義語とみなすことも不自然である。論理学的にいうと「文底秘沈を知ってから文を判ずること」が「文と文の真意との従属関係」を不明瞭にしているので、循環論法や「鳥と卵」のようなパラドックスになり得る(文学の読解であれば人の人生経験とその価値判断が関わるのでそうとも限らないが)。古い文献・文学はフラグ回収(伏線回収)のようなことが必ずしもされないので、直ちに一文の意味を決定することは困難である。



卓越した先人たちの学問・芸術研究

学問領域の分化は、合理化された分業体制の一種であろう。
個別の学問の専門性が漸次に高められ、学者の知識が高度であらねばならず、現代では自然科学がそのように成り立つ。
※科学哲学者であるトーマス・クーンのパラダイム論(Kuhn 1962「科学革命の構造」)によれば、既存の学問のもとで未解決の問題が解決されるという新しい科学的業績=パラダイム(それは同時に新たな課題を作るもの)にベテランや若手の様々な研究者・科学者たちが賛同するなどして共通のテーマのもとで学問領域が分化する例が多いともいう。新しいパラダイムに移行するという「パラダイム・シフト paradigm shift」もある。それは著作でいうとアリストテレス「自然学」→ニュートン「プリンキピア」などであり、またニュートンらの古典力学からアインシュタインらの現代物理学のような例もあるという。彼は自然科学についてのみパラダイム論が適用されるべきであると概念・用語の制限をしている。パラダイム論は後に彼自身が放棄したものであるが、科学史と分野のアイデンティティを考える一つの基準ではあろう。

西暦1900年以前は、現代の学問から見て複数の分野とみなされる研究を一研究者の行動範囲に含むことが多かった。
それだと、一般的な科学者というよりは、哲学者・思想家・芸術家のようでもある。
博学の人"polymath"と称すべきか。
中世ヨーロッパの科学者たちは、一般教養としてキリスト教神学の造詣もあったし、彼らによる神学への言及もされた(多くの場合はキリスト教神学の範疇で科学的・自然哲学的な研究をしたとも考えられる)。
そのほか、人文系の研究に貢献する者が医者を生業にしていた例も多かろう(e.g. 記紀の研究者Motoori Norinaga 本居宣長や フィンランド伝承Kalevalaカレワラ編纂者Elias Lönnrot リョンロートや Esperantoの考案者で聖書翻訳者L. L. Zamenhof ザメンホフ)。

私が知る西暦1900年以前の博学な人物の具体的な例は、直ちに挙げづらいが、レオナルド・ダ・ヴィンチが典型例かと思う。
近代以後では、言語学で功績をあげた人に数学者・物理学者がいた。
例えば、ヘルマン・グラスマン (Hermann Grassmann, 1809-1877)とトマス・ヤング (Thomas Young, 1773-1829)である。
前者は「グラスマンの法則 (Grassman's law)」と呼ばれる法則を言語学(印欧語研究)にも物理学(色彩・色覚関連)にも与えた(他にグラスマン代数とも呼ばれる外積代数がある)。
後者は「ヤング率 (Young's modulus)・ヤングの実験 (Young's interference experiment)」というエポニムが物理学で知られており、印欧語研究やエジプト学(ヒエログリフ研究)も行い、2006年出版の伝記の題"The Last Man Who Knew Everything"が彼の博学ぶりを表している。
両者は一括りに言えば「古典言語と光に関して通暁していたし先進的な研究をした」ことになる。
当記事の執筆に際して知った類似の人物に、チャールズ・サンダース・パース (Charles Sanders Peirce, 1839-1914) がおり、彼も数学などに長けていた・光に関する研究(天体の測光やメートル単位の基準に光の波長を用いる提案)をしていた・論理学や哲学に大きな影響を与えた(実用主義の英語名称2つpragmaticism, pragmatismはいずれも彼の造語。先述の記号学・記号論の一大潮流でありしばしばソシュールに対比してsemioticsという学問名称を用いる人物として挙げられる。2つの同様の名称を造ったことはそれこそが言語や記号のプラグマティックな側面を重んじることの現れであろう。言語学の語用論pragmaticsに似るが無関係)。

※余談だが、パラダイム論に関してこの例も挙げよう。光の本性(人々がそう思いたい本質・正体)とされるものは粒子か・波動かという議論があった。17世紀にニュートンさんが「光の粒子」説に当たる見解を示した。その前にホイヘンスという学者が「光の波動」説に当たる見解を示しており、先述のヤングさんは「光の波動」説が支持される実験をした人物である。後者の時代から光の波動説(数十年後にはフレネルという学者がホイヘンスさんの説を補強する)が物理学などで広く支持されるようになっても、19世紀後半から終盤までに「光電効果」に関する実験などが示され、光の波動説に危機が訪れた。粒子・波動の両者の性質が見いだされる光の作用が証明されている状況で、20世紀からはアインシュタインさんが「光量子・光子(フォトン photon)」説が支持される光電効果についての研究によって1921年ノーベル物理学賞を受賞した。光の本性とされるものを簡単に言えば、粒子でも波動でもなくどちらの性質も観測される「量子」であるということ (wave–particle duality) が結論であり、今日の科学で承認される。光学は今も光の波動としての性質に関するパラダイムに則る波動光学 (physical optics) と、光が量子であるとするパラダイムに則る量子光学 (quantum optics) とで異なる分野が並存し、研究されている。目的性によっては幾何光学 (geometrical optics) も研究される。

※パラダイム論や科学哲学に関してまだ思うことがある。現代日本のファンタジーのRPG (Role-Playing Game) 作品などには、そのゲーム内の魔法理論や錬金術理論などがある。一例として、魔法の属性は、それを示す図がシステマティックであるし、ゲーム内の世界で厳然とした事実である。ビデオゲームならば属性間の相性(火と水または火と氷が対称的)がプログラムで計算・処理・反映されて有意である。現代日本のファンタジーのRPG作品内の魔法理論や錬金術理論の淵源は定かでないが、やはり中東やヨーロッパにあったと思しき中世・近世の本格的な魔術・錬金術の学問や近代・現代のファンタジーの文学などに求められる要素は多いと思う。それらを骨組みに、世界各地の神話・伝承などで肉付けされてもいると思う。現代のファンタジー作品に限ればMP (Mana Points, Magic Points) のために「マナ mana」というポリネシア系言語(マオリ語など)由来の言葉が用いられるようになった経緯が分かるように、多少の要素の淵源を求めることができる。大局的に私は認知しない。何が現代日本のファンタジーのRPG作品の祖先に当たるかは断定的でなくも、いくらかパラダイムや規範となるような理論やそれを含む作品があることは考えられる。よくできた魔法・錬金術の理論は、科学と見紛うものである。しかし、現代日本のファンタジーのRPG作品は既に古典力学・物理学などよりも後の科学知識を知っているような人たちが築き上げた産物・所産ならば、詮ずる所、現代的な疑似科学またはSF (science fiction) であって最も精巧なモデルである。

先人たち彼ら個人の研究領域が幅広いことについて、その成果を知るのみでは、教養知識として「画竜点睛を欠く (an idiom in Japanese, it lacks a Chinese classic source)」ようなことである。
彼らの成果から感じ取れる彼らの探究心や知的好奇心の強さ(人間性)を、感じてもらいたい。
もちろん、学者個人の哲学や理念ということには、専門分野で直向きな努力をする人たちからも感じられることは多い。
現代の合理化された学術分野のうちで学者たちの精神が失われていない限りには、彼らの姿勢に精神性を求めることができ、彼らの精神性を良いものとも悪いものとも多面的に見てみると、自身の努力の糧になろう。



いわゆる文系・理系の学際性とペア関係

ここから、「文系・理系」という、現代で学術はもとより教育方針としても意味をなさない区分(二項概念)の名称を用いる。
反例として東京大学の文科一~三類・理科一~三類などがあるように、一部では機能している(ただし東大合格者は文理不問で入学後の4年制前期課程=2年間みな教養学部に所属してリベラルアーツ教育を受けることになっている)。
口語的用法では、今も多少の日本人が学問とその研究者の人格に対して区分に用い続けていると見られる。
ただし、高等教育(大学)に関してこの区分が的確な側面もあろう。
ひとまず、文系・理系の学際性とペア関係について考えてみよう。

  • 心理学(学部でいえば文学部)と精神医学(学部でいえば医学部 alt. 精神病理学)
  • 地理学(学部でいえば文学部)と地球科学(学部でいえば理学部 abbr. 地学)
  • 分子人類学(学部不明。系譜学を物質的に証明する。人類学は言語学・考古学・民俗学に関連する)と分子生物学(学部でいえば理学部。生物学は主に生態学と形態学と分類学を含んで自然科学)

他に、社会学・言語学と情報技術・情報科学(技術というとエンジニアリング、プログラミングとか。理学部・工学部など)を示そうと思ったが、雑駁になりそうなので控える(古形としての情報学は社会や文献などの情報全般を扱う文系領域であろう)。
上記の例らは、私がペア関係だとみなす理由を詳述していないので、各自で想像するとよい。
実際に異分野間の研究者がどのくらい協力し合うことがあるかは、私が決定的に論ずることもできないし、上記の例らも、それぞれに程度の差が考えられる。
「心理学と精神医学」の相関性は想像に難くないが、「分子人類学と分子生物学」の相関性は考えづらくて「何となく似てる(口語)」という程度の感覚に思われよう(分子人類学の研究対象を身近な親戚・民族など家系レベルから拡げて現生人類のみならず比較のためにヒト属Homoないし霊長類Primates全般にするならば生物学と大きく重複する。任意の学問分野の研究は現生人類とショウジョウバエ特にDrosophila melanogasterなど非脊椎動物まで比較することもある)。

学際性ということに、多分野の研究者との緊密性 (transdisciplinarity, pluridisciplinarity) とか、異分野との方法論の共通性 (interdisciplinarity) とか、研究対象の共通性とかが言われるならば(multidisciplinarityを含めた4つの用語はいずれも1つずつ別個に定義することができても1つあたりに別の説明がされることもあり興味のある者が各自で調べればよい1, 2)、これらは区別されたほうがよかろう。
ともすると、学際性の考察ではなく「個の没個性・曖昧性(曖昧さ ambiguity)」というべき考察になる。
また、学際性の高低を量っても、やはり、それが学問分野の優劣を示すわけでもないと知るべきでもある。
研究者が、必要性に応じて便宜的に異分野の知見を用いることになる。
それで、一応の学問名称による分野の区分と、その無分別の側面もあろうが、一応、基本的に私は分野の細やかな差異を認識する。

私が自然科学・人文科学・芸術を融合させた研究をすることもある。
今まで挙げた名前以外では、認知科学やメディア研究(メディア・スタディーズ)、メディア芸術(メディア・アート)が私に関係している。
2016年2月15日『二次元・三次元の相貌の相対的な互換性に関する理論の体得』(後年の追記①・②を含む。自然科学の要素は少なくて形式科学や認知科学に近い)
https://lesbophilia.blogspot.com/2016/02/2ji-3ji-gokan.html
2019年4月6日投稿『母音の広狭と音高の上下に関する実験の意図で作詞した ~ 楽語共調理論 入門』(音響学・音声学・音楽、他に形式科学という数学の考え方が適用される。以下の画像の周波数解析は音声学のうちの実験音声学に一般的な手法であって数字利用でしかないが他に母音チャートを3Dの立体図形として考えるなど)
https://lesbophilia.blogspot.com/2019/04/symphonedy-vowel-pitch.html


学際性というよりも、その学問の基本的な知識に2つ以上の学問の知見が大事になるものが、言語学に関連した「音声学 phonetics」である。

  • 言語発音の調音位置とその位置での調音方法について解剖学的な (anatomical, anatomy) 理解(実験におけるMRIの利用も稀にある)を要する。 i.e. 調音音声学 articulatory phonetics
  • 言語音声の解析にはスペクトログラムなどを用いて音響学的な (acoustical, acoustics) 方法をする。 i.e. 音響音声学 acoustic phonetics
  • 疑問→調音方法には力学的な (mechanical, mechanics) 分析もできるが、現今の音声学で数学の方法はハードに用いられていない(言語音声の生成に数理を用いる例はソース・フィルタモデル source-filter model, theory があり音響学・音声合成技術などで有名)。
  • 疑問→音声の知覚には神経科学的な (neuroscientific, neuroscience)・心理学的な (psychological, psychology) 考察(e.g. 音象徴)もできるが、現今の音声学の領域よりも認知言語学的である(聴覚音声学 auditory phonetics が包括するかも)。
  • 応用→音声処理技術に役立てることが可能。
  • 応用→歯列・骨格・筋肉の障害などによって発話が困難な人・言語障害者の補助のためなど、音声合成技術に役立てることが可能(2019年もアメリカの研究機関UCSF Chang LabのチームがAIに言語発音とその発話の脳の電気信号の関係性を学習させて音声合成を行う技術の報告をした。彼らに音声学の専門家が関与せずとも音声学の知見が用いられた)。
  • 応用→乳幼児言語教育や外国語教育や音声認知の研究の進展に役立てることが可能。

音声学の現代までの過渡期には、他の学問の知見や方法を導入する学者がいたこと(言語の音韻研究は古代インドのシクシャーからして解剖学的だったので近代~現代のみならず伝統的にも同様の傾向あり)が明らかであろうが、今はその方法論が既成事実化しているので、学際性ではなく単一学問が持つ特徴に収斂する、と私はみなす。
音声学には、"interdiscipline"と呼ばれる、単一学問に対する分類名称が適用できる。



続いて、科学史や数学史の研究領域などはどうであろうか?
一学問分野それ自体の社会的地位や歴史的経緯(科学者個人ないし共同体・小社会)などを研究することは、学際というよりもその分野の社会科学の側面を研究していることになる。
論文・文献の整理や学説発表の順序など、自然科学系・理系ではこの行為が必要である(学問は人の手でなされてきたしこれからも人道的・人権的な見地とともにそうあらねばならないという倫理規範がある)。
各研究者個人で必要最低限に(彼らが論文を書く際に出典を示すために必要)そうするし、科学史(数学・化学・物理学・医学ほか自然科学系の歴史)の専門家は少ない人数でも必要になろう。
科学史などがもし社会科学の範疇にみなされるとしても、多かれ少なかれその分野の専門知識が要求されることになる(数学史であれば数学的知識と技能とが人物・学説を把握するレベルで必要か)。
※私は一学問分野それ自体を学問研究の対象とすることについて「メタ〇学"metascholarship"」と呼びたい。いわゆるメタ認知 (metacognition) は認知主体がそれ自身を客体=対象にして認知すること(心自ら心を知る。この用語の意味は脳科学や神経学の見地で反論されそうだが慣用的にそう言える)を意味するように、メタ meta- という接頭辞に再帰的な (reflexive) 意味があるが、メタ〇〇学はそれに加えて学問領域の範囲外に超越している状態を指す。しかし、メタ認知がそうであるように、メタ数学・超数学 (metamathematics) が数学の方法で数学を研究することから考えると、私の「メタ〇学」名称には問題があるので、この「呼びたい話」を気にしないでよい。



日本人が好きな「文系・理系の分別と、それによる言論」
の学問における空虚さ

日本人は「文系・理系」として後天的アイデンティティを分別して用いることが好きであろう。
ここでいう「日本人」とは無標複数形(日本語では複数形のための標示 marker が無い語形・無標 unmarked で用いることが多く日本人の不特定多数を指す場合に「日本人たち」とはあまり言わない)であり、社会についての思考能力がある年代(例えば15~64歳)を想定する。
日本人はこの日本列島内に生まれ育つ過程で民族的差異(肌の色のみならず宗教や言語の多様性)と対立とを身近に経験しづらい分、同じ日本人のうちに後天的なアイデンティティを自己や他者に仮想したがると思う。

それはともかくとして、日本人は学問的な目的性や教育現場での便宜的な区分の前提を等閑視して「文系・理系」の分別(客観的基準さえ乏しいままのそれ)に依存した思考と発言とを行いやすい事実はある。
多くの恣意性を孕み、既に結論ありきの議論がなされることもあろう。
人により、そこから文系・理系に本質的な異なり・絶対的な隔たりが感じられよう。
日本語版Wikipedia - 文系と理系あたりを参照すればよい。

中国語圏だと、日本のような用例で「文系・理系」とは言わなかろう。
中国語版Wikipedia - 文理分科は、中国大陸や香港での高等教育に関する話題が書かれる。
文科は政治・法律・経済・リテラチャーとしての文学といった社会科学や人文科学の科目を指し、理科は自然科学全般(精密科学や生命科学など)の科目を指し、いずれも国語・外国語・数学などは必修のように見える。
文理分科および必修科目とは、学校ごとの程度の差があって基本的に自由の上で結果的に傾向が似たものか、それとも社会主義国家らしく国家的カリキュラムがあってそれに基づいたか?
中国語版Wikipedia記事は一般論が書いてあるとしても無出典の記述が多いので、大学の科目などに興味のある者が北京大学とか精華大学とかを調査すればよい。

それとWiki間リンク (wikidata) の付けられた英語版Wikipedia - Hard and soft science は、科学分野の特徴に関する区分としてそれらの名称が稀に用いられていることが提示されているようである。
口語的な用語 (colloquial terms) ではあるので、大まかに言うと"hard science"は理科系, "soft science"は文科系を意味する。
歴史的には、1960年代に初出のワードである(cf. Yngve 1961, Storer 1967 哲学や社会科学の系統の人による思考の産物でもある)。
詳細な分野ごとの"hardness"、質・量の測定は不明確である(一応Storer, 1967に例示されている様子)。
学問的・哲学的な観点で"criticism (批判)"も多く考えることができるし、英語圏で一般的な分別概念・名称とは思えない。

Wikipediaのうち日本語版と中国語版と英語版とでは、全く別の概念が、wikidataで相互リンクを付与されているという、極めて稀な現象が示された。
文系でも理系でも、語学(国語・外国語)と数学(算数・幾何学)は学問の基本であると考えられるし、各々が要求される程度に随って習得すべきであろう(小学校の科目でいう”こくご”と”さんすう”を連想)。



日本人が好きな「文系・理系の分別と、それによる言論」について、一般的に何の観点で行われるか?
ほとんど経済的な利益や、就職・就業・世間体で有利か不利かという観点が基本であると見てよい。
cf. 東洋経済「本当に強い大学ランキング」および島野清志「危ない大学・消える大学」と彼の他著書 (英語版Wikipediaに2011年に日本語版から翻訳された記事があるが日本語版Wikipediaでは2012年に削除されている) 東洋経済もとい大学通信による「大企業(有名企業400社)就職率」などという調査もある

高等教育機関としての大学(入試・受験)に関する話題や就職活動に関する話題では、特に文系・理系の分別が世間で好まれよう。
※早慶とかMARCHとかFランク大学とかといった区分も、その世間での用法について、似たように見てよい(cf. 川上, 2017. 大学の“くくり”はどのように生まれたのか?)。「高等教育機関」のうちでは、東大・京大・早慶・MARCHといった学校が、22歳・学士・新卒としての典型的な現代人・社会人・労働者の量産を行っていると考えられる(第26代東京大学総長・蓮實重彦さんは平成10年度入学式における式辞でそれを望んでいないように語った)。「学術機関」としては、そう見られるべきでない。何の大学であれ、各々の使命感と目的性とによって学究研鑽をする者がいるからである(Fランク大学がそう呼ばれる所以はそれがいないからだと反論されそうだが)。学校の個性は、所在地が代表することもあり、北海道大学は北海道大学の価値があり、琉球大学は琉球大学の価値があると考えたい。フィールドワークのある学問研究では地方ごとの「地の利・ローカル性」が活かされる。こう話しても、個性的な学校以外を切り捨てるようであるから、あまり望ましくないかもしれない。「良い人材と出身校」は結果論のようだが、しかしまた、「この学校の出身者には良い人材が多い」という傾向が見出されることは、排除できない。効率主義の現代日本では、特にそういった「~だろう、~に違いない」の見解がマニュアル的になされることも妥当である。個人では解決できない社会的な課題である。

当事者の自負としてのアイデンティティは尊重されるべきだが、他者がそのまた他者へと一方的にみなすことは悪用と感じる。
自虐的な自己紹介・謙遜表現で用いる場合は悪用のグレーゾーンと感じる。
「文系・理系(および体育会系)」以外にも「草食系・肉食系(および雑食系)」や「右脳派・左脳派(一般に通俗的二項概念として用いられる。脳・神経科学では"ブロードマン脳地図44野はブローカ野の一部分であり、言語の発話に関係する"と語るように脳の詳細な部位を想定して思考や感傷などの機能を説明することが多いので単純に左右という二分法・二元論は通じない。そもそもこういった即物的な語彙を用いる一般人が即物的な実験を行っていないし専門家の説明や文献を参照しない。単に仮説として理性や感性を意味するならばそれでよいと思うが)」や「A型・B型など血液型」は、そういう用いられ方がされやすい。
アイデンティティの有無は、人間の精神性(感情・欲望)から分別の必要が相応にされるものの、日本人が行うものはかなり前時代的な人種論(18世紀~20世紀前半ヨーロッパなど)と似る。
それよりも更に悪い側面として、日本人は学問的な知見・方法論に疎遠である。
インターネットの二面性として、文化的な意識の向上と、小規模共同体の拡大とが見られ、高速な文化の消耗と生産とが起こるであろうが、どうにも学問的な知見・方法論は定着するよりも、遮蔽されて一般化しづらくある。

巷間の「文系には分からない・理系には分からない」などという論調が、実に一方が他方への秘密主義を持っていて学問的態度に反している。
何よりも人間 Homo sapiens sapiens の知的な可能性(sapience, sapientia. 分かることは結果論なので直観"intuition"か無感情知性"intellect"かはここで不問)を限定しているようで、人道的でない。
もし自他を文系・理系と分別して本質的に能力の異なる生まれを持つ価値観に固執するならば、人間の知的な可能性 (sapience, sapientia) を自ら放棄することに繋がりかねない。
19世紀以前の博学な者たち(人文学を行う医者たち・言語学を行う数学者たちなど)を私は先に示したように、個人の意思が尊重される限りは学問に「文系・理系」ごときの可能性の隔絶は無いと感じてもらいたい。
隔絶があると思うならば、専門分野に慣れた人たちが確かに他の分野になじみづらいということが尊重されてもよい(例えば物理学と生物学の生態学とでは理系同士でも著しく趣向が違うように専門分野に慣れた人たちが他の分野になじみづらい現象はもっと専門性に約すべき cf. 科学哲学でいう通約不可能性"incommensurability")。
そうでもない大概の一般人は「文系・理系」という便利な区分名称によって思考放棄や知的怠慢でいるに過ぎない。
それは社会人が社会人として役割分担の中で生きるには便利だと思うが、自他の能力を限定させる言葉の用い方は現代の個人主義 (indivisualism) ・自由主義 (liberalism) の理念に遠い。
私は、任意の専門でも学際でも研鑽・研究意欲のある姿勢を応援する立場であるが、あらゆる系統の学問の中で人間(i.e. 全人類)を区分して人間(i.e. 研究者個人)を限定するために「文系・理系」の分別を濫りに用いるべきでない。
※日本語の「人間 ningen」は多義的であり、文脈によっては英語で全く異なる色々な概念・名称となる点に注意されたい。日本語がもし英語やフランス語のようであればどうか?"ningen"という単語は無冠詞・不定冠詞・定冠詞、可算・不可算を問わず、色々と文法的な位置づけができる。文系の人も理系の人も、外国語で論文を書く場合に注意されたい。

その人間を限定する「文系・理系」という語彙は、その学問の専門性か、その高等教育を経ることか、通俗的二項概念としての「右脳・左脳」に託したものか、俗語での用法が判然としない。
先述の東京大学の文科・理科のような現代日本で稀な教科区分(ただし東大合格者は文理不問で入学後の4年制前期課程=2年間みな教養学部に所属してリベラルアーツ教育を受けることになっている)とも似つかない、曖昧模糊の俗語用法であろう。
現代の個人主義は科学を支えるものと考えられるが、多くの日本人は未だにその語感に惑わされて意味を正しく把握せず、理系・文系、血液型などを妥当な目的なしに用いている。
「誰には分からない・分かる」ということから、かえってその人間の性質を世俗に生きる者たちの間で新たに定義したいのかもしれない。
「文系・理系の分別と、それによる言論」は、社会の経済・大衆の価値観のうちで利益もあろうが、学問のうちで害悪なるのみであり、真面目・真摯・実直な科学者たちにこの種の話がされるならば、彼らの機運を損じると私は思う。
ましてや、各科学の第一線に立つ者たちがそれを話したり論じることは、有り得べからざることである(有り得ることが望ましくない)。

もし、文系分野の人に、科学的姿勢が欠如していたらば(e.g. 経済学・政治学の大衆的な著者は売文家であってプロパガンダや偏向的な論調が多い)、彼らに理系の方法論を与えるのもよかろう。
しかし、文系であれ理系であれ、数学的な技能を使う分野もある。
数学的な技能がハードに用いられる分野であっても、それによる高慢さが、当記事に語られたような科学的態度を失わせることも有り得る。
参考までに、90年代の欧米(ここで主にアメリカ・イギリス・フランス)には、自然科学・数学などの知識をでたらめに援用する一部の人文・社会科学の行為を皮肉にした論文が発表されて1997年には著者アラン・ソーカル Alan Sokal らが"Impostures intellectuelles"(邦題: 「知」の欺瞞...)を出版して皮肉ではなく批判を行っている、「ソーカル事件 Sokal affair (およびthe science wars)」がある。

次の事実は恐るべきである。
学問の外で世間一般の人々が、いわゆる科学知識を借りて偏向的な主張をすることも多い(医学知識・健康法などの情報にこの傾向が有る e.g. 健康食品・運動器具の宣伝 cf. 私が19歳で提唱した真の健康法の理論的説明箇所)。
生命科学(生理学・医学・薬学など)は、応用分野であるし、応用できる知識や実生活に馴染む知識が多いので、疑似科学だと証明し得るか科学的根拠が確立しづらい偏向的な主張が混ざることを注意したい。

説明をする人の主観的な経験と客観的な法則とを混同して説明する人がいることにも注意したい。

これらの問題性には、歴史学・宗教学などの知見(cf. 戦争 セクト主義 同一宗教内の対立・分派)が有効なことも多いと思うので、是非、学んでほしい。
学者・専門家・権威の説であってもWikipedia上の説であっても匿名の説であっても、興味のある者が彼自身による検証で情報の取捨選択がされねばならない。
この要点は、「自洲・法洲・不住他洲 (DN 16: attadīpā viharatha attasaraṇā anaññasaraṇā, dhammadīpā dhammasaraṇā anaññasaraṇā. )」といえる。
先のような仏教(特にパーリ・阿含の類)における仏道修行のスタンスを、また科学に援用することもできる。
この点で、科学研究も仏道修行も、その人の真に拠り所とすべきは知能・精神・五感の対象である現象(物事)であり、これについての説明を過去記事より引用しよう(仏道の場合でいう現象・物事・法"dhamma, dharma"はあくまでも以下に説明されるように科学的な範疇と異なる点に注意)。

同時に、各々に認知された情報・知識や、各々の知能や人生経験、各々が「こうであれ」という願望・意図・感情など、多くの「因縁」が結びついてなされたものであり、無常・空と見られる。
つまり、一応は根拠に基づいた論がみな正論と言えるが、仏教徒は「因縁によって論理があること・因縁によって論理の正誤・優劣があること(縁起)」をよく学んでいるので、対立する主張のどちらも「空虚(真の意味で正論でない)」と知って遠離する。
それら特定の見解に執着して主張する人・特定の見解を持つことで異論へ嫌悪感を催す人などは、悉く三毒に汚染されており、自己も汚染を受けるであろうとして、自ら心を観る。

Dhp 50: Na paresaṃ vilomāni, na paresaṃ katākataṃ; Attanova avekkheyya, katāni akatāni ca. (ダンマパダ"Dhammapada" 花の章"Pupphavagga"より)
法句経: 不務觀彼 作與不作 常自省身 知正不正 (彼の作すと作さざるとを観るに務めざれ 常に自ら身を省みて正しきと正しからざるとを知れ)

※当記事の話題に寄せて言えば、論争や論議に関して自己の三毒を見て自己や他者の論理に耽らないようにする。論議における三毒とは「①論への貪=快感 ②論への瞋=不快感 ③それらを自覚しない癡=愚昧さ」となる。この三毒について自覚・反省をして修行と無関係な論理・見解に固執しないように努力することが、八正道にも通じる仏道修行。八正道の修行者による積極的な論争は推奨されないが、仮に自ら論議に加わった・他者の論議を見てしまったならば、その時はその時で過失を自ら知って省みる。また、パーリ経蔵・増支部3にある"Kesamutti Sutta(通称: カーラーマ経)"は、様々な哲学・宗教・学問・社会などの思想"vāda"や常識や見解や理論や教義について、やはり仏道修行者は「三毒によって"具格: lobhena, dosena, mohena"諸々の悪行を為すという苦"dukkha"が無く、自分の心の安楽やそのための修行に資するかどうか」という点に基づいて用捨を判断せよ、と釈尊が教示していた。自分が三毒の無い状態"alobha, adosa, amoha"となりえるならば、いかなる見解や理論や教義でも用いてよい善法"kusala"であると。大乗経典の依法不依人(依於法不依人)を想起させる。縁起の理法では、人が釈尊の教えを眼や耳で認識して釈尊の教えだと信じることも「因縁による思い込み」のうちである。法性を知る智慧・衆生の苦を除く慈悲によって説かれた釈尊の教えは尊いが、結果的に「己がどのように用いるか」が重要となる。教義の用い方(前提・目的)については中阿含経の阿梨吒経とパーリ経蔵・中部22経の蛇のたとえや、中論24:11偈の蛇のたとえや、大智度論巻第十八・塩のたとえを参照。

この教理は、小乗・阿含時の修行・果報(正念・不戯論)へ通じる。
「苦集滅道(くじゅうめつどう)」の四諦に依拠すれば、修行とは苦諦(くたい)・集諦(じったい)・道諦(どうたい)に当たり、果報とは滅諦(めったい)に当たる(苦のもとは渇愛"taṇhā, tṛṣṇā (trishna), 同語源英語: thirst"として渇愛ある物事に渇愛があること=集諦、そこに渇愛が滅すること=滅諦を示す)。
過去記事では「四念処」を例に挙げて詳説した(住於自洲・住於法洲や一入道)。

(その参照)
改めて言えば、四念処の修習が、現代日本で人口に膾炙する「自灯明・法灯明(自燈明・法燈明)」、もとい「自洲・法洲・不住他洲(雑阿含36経: 住於自洲・住於自依。住於法洲・住於法依。不異洲・不異依。 長阿含2経: 云何、自熾燃・熾燃於法・勿他熾燃、當自歸依・歸依於法・勿他歸依。阿難。比丘觀内身精勤無懈…=身念処ないし四念処の説明 パーリ長部16経: Kathañcānanda, bhikkhu attadīpo viharati attasaraṇo anaññasaraṇo, dhammadīpo dhammasaraṇo anaññasaraṇo? Idhānanda, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati atāpī sampajāno satimā...)」ということである。
したがって、やはりダンマパダ・人口に膾炙する50詩(他人の過失を見るな、常自省身・知正不正)の真意にも通じることとなる。
この「自洲・法洲・不住他洲」、「己を見よ・法を知れ・他を見るな」ということが、小乗のエーカーヤナと同じく四念処を指している。
不戯論のままに自己の修行を為すこととなる。

引用源:『仏道修行のための論理、不戯論のための戯論』
および『法華経方便品の偈とスッタ・ニパータ4.12経の偈、および大乗と小乗の「一乗」の不一不異義』

他の参考:『仏教はなぜ仏教か?宗教・科学・哲学・倫理・道徳との類似点・相違点、中道と解脱』
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/07/What-Buddhism-is-not.html

とりあえず、多くの学問・研鑽を行う者たちにおいて、科学性・科学的態度と科学分野の多様性に関する話題は現代の日本国を生きる上で、頭の片隅に置かれる。
少しでも、私からこの話題に対する見解を示し、学問の方向性を闡明したかった。
いつのどこでも真摯・実直な人は誰もが五里霧中にある状態を自覚すると思うが、各々の心にコンパス(方位磁石・方位磁針・羅針盤)を携え、それを1日3回でも1月1回でも見直すようにすればよい。



少し社会・世俗の話題

最後に、日本国の科学分野(世間の人が思う対象の自然科学・医学・工学・技術全般)の現況についても少しだけ考えよう。
研究費用と国家予算の配分の問題や、自然科学・工学などでの女性の少なさなど、色々ときかれる。

前者は様々な科学者たちの意見が既に示されており、これから文部科学省(cf. 科学研究費助成事業)などの関係省庁・機関で何かしら改善が進められると思う。
当時民主党・台湾二重国籍報道で有名な蓮某議員のかつての発言「二位じゃダメか」とは、「国家的な科学技術の水準や地位を維持する目的のもとでの悪い例」として顧みられよう。
自然科学系の人たちは「多くの分野で被引用率・被引用数(一国中の機関の論文が一定期間内に国内外で引用された回数)は日本が中国に追い抜かれている。その主要な原因は科学技術に対する予算の少なさだ」と警鐘を鳴らす(10年以上は鳴らし続けている。早ければ先の蓮實さん式辞を加味して90年代からか。ここ5年は日本人ノーベル賞受賞者の発言も世間で報道されやすい。当記事執筆中の2019年5月上旬にも国立・科学技術振興機構 JSTが最近の調査情報を発表していると毎日新聞やNHK, k10011913021000.htmlで見た)。
費用に関する話は行政府などに限らず、民間・企業レベルでも世間で明るみに出る話題があり、2018年ノーベル医学・生理学賞を受けた本庶佑(ほんじょ・たすく Honjo Tasuku)さんが、彼の研究 (PD-1) に関連する医薬品オプジーボの特許に関する件で受賞以前からその製造・販売を行う小野薬品工業と対立する(本庶さんは基礎研究の促進や若手の育成を目的にして金銭を多く得ようとする)など(彼の研究に関連する特許問題は国外にも案件がある)、研究開発には色々な社会的な課題が伴うようである。

予算以外にも制度改正・法整備が、今までの技術の進歩や今の研究者の意欲(研究の発展)に対応して柔軟に進められる必要があるとも言われる。
例えば、2018年(法令・平成30年)中にはAI(Artificial Intelligence 人工知能)による学習行為において著作物が広く利用できるような著作権法の改正があった。
2015年ころに私は、司法解剖(検死・検視)の質や量を改善するための法改正が必要だと聞いた(科学技術と直接の関係はない話題だったと思う)。
生命科学の分野に関しては、法整備のための立法府に対する主張に加えて一般人・民間人レベルで理解を浸透させる必要もあろう。
人々があまり即物的になれば、倫理観を失い、別の弊害もあることは一種の悲観であろうか。

後者は日本の女性たち自身が何かと「科学でも政治でも誰かしら女性が目立つとその女性自身が恥をかく」ことを自覚していて弱腰になっているかもしれない(e.g. リケジョ小保方さん論文・第二次安倍改造内閣女性閣僚2名同日辞任・豊田真由子議員による暴言・稲田さん防衛大臣期に数度の失言)。
2018・19年には東京の某医大をはじめとする複数の大学医学部が女性受験生・男女不問浪人生が不利に扱われる問題の報道もあったが、何らかのアンケート・意識調査によれば、医学部生か医学部OBか誰か女性たちの過半数が「仕方のないこと」のように回答していたようでもある(なぜ彼女たちがそう思ったか理由は不詳)。
これらの話題は私の脳内ソースにも依るため、興味のある者が別途、検証すればよい。

私の現住・愛知県豊橋市で当地に唯一の国立大学である「豊橋技術科学大学 (TUT)」は、THE世界大学ランキング (Times Higher Education World University Rankings) 2019で801-1000位に入っており、そこに載る「女男比 Female:Male Ratio」を見ると、豊橋技科大が9:91という驚異の女性の少なさであった。
これは1,000位以内に入った日本国内の大学51校のうちで最も低い比の値である(cf. 東京工業大学 14:86, 東京医科大学 50:50)し、他の世界全体で1,001+のランクを含めて探しても女性が値10以下である学校は男子校などを除いて2校のみである (Indian Institute of Technology Roorkee 10:90, Muroran Institute of Technology 9:91 いずれも工科系)。
※「比の値」なのかは正確にどうか不明である。9:91を数学での「比 (ratio)」として見るならば、女性は百分率の比率における9%ではなく、9 割る 91 の答えから 9.89%となるためである。このあたりが数学での「比」なのか、通俗的な「比」(足して任意の数になるもの、ここでは 100 なのですでに百分率、パーセンテージである数値を並べてある)なのかは定かでない。
当地にも何か影響が及ぶかは不確定であるし、及ぶならば未知数である。
男女平等に関する事柄に限れば、先述の通り、日本の女性たち自身の意思や意識による部分も多い。
女性たちが望まない範囲の男女平等の状態(学術以外にも労働や雇用も同様)を、権力ある女性男性諸氏が作り上げることは、文字通り心ある人々にとって望ましくない。
※蛇足の肉球を書こう→『国連 UNをはじめとする世界的機関の多くは「表現の自由=報道の自由」のように扱っても、大衆娯楽・大衆美術・大衆文化を対象とする傾向が少なく、世界で一定の地位を得た日本の漫画やAVなどを彼らがあまり尊重しないばかりかユニセフ UNICEF的に規制対象としていようこと』は、やはり『日本の漫画やAVなどが、性差別を根幹に抱えている(しかし日本で特殊な点は例えば作者・出演者が男性でも女性でも「一方の性・特に女性が弱者のように表現される漫画やAV」に嫌悪感を持たずに表現を追求している)・同性愛をその異性の性的興奮を誘うように表現する・小児性愛のような側面を持つ』と見る彼らが好意的に日本の漫画やAVなどを表現の自由の対象としない要因となっているように、私は感じる。表現(言論に限らず芸術的な創造を含むspeech, expression全般)によって不特定多数の他者の人権が侵害されることを思い合わせるにも、大衆の娯楽・美術・文化を交えると、表現の自由のために恣意的な二重規範・ダブルスタンダードは現状に強く残っているように、私は感じる。個人の思考や思想の自由に繋がる以上は基本的に放任されているとはいえ、私的な範疇でさえ小児性愛のポルノグラフィー所持に対しては風当たりが強いように、私は感じる。本題と関係ないばかりか漫ろに私感を示したという蛇足肉球であるため、この記述は考証の対象にしなくてよい。

金銭や性の話題(男女やLGBTや性的嗜好)などはセンシティブでヒステリックであるから、あまり触れたくはなかったが、少し社会性の側面で示しておいた。
日本国では西暦2019年5月1日、平成31年をもって明仁天皇陛下が退位して上皇となり、新しい天皇陛下(徳仁)が即位したことで「新しい時代・令和」になった・改元されたと話題があることに便乗した形である。
日本国の学術領域がどうなるか、多角的な見地で観察し続けることは一興であろうと思う。

当記事の言いたかったことは社会性の話でないわけで、筆者としては「科学と化学 The terms in Japanese "kagaku and kagaku" ~ 言語における科学性もとい合理性と実用性」の話が最も重要であった。
表題の「科学的なこと」とは、客体 (object) それ自体は素粒子・分子・生物・惑星・宇宙、光・音・言語・神仏の何であれ、方法論によって何でも科学の研究対象になることである。
または研究対象が定量的な (quantitative) 方法に堪えられると判断されるともいう。
19世紀以前の科学史で確かに、言語や神仏など定量化しづらい事物・社会的な特性が人々において持たれた事物は科学の研究対象にならなかった(神学や国学などがザ・科学に似ても信仰に基づく側面が強い)と分かるが、過去のことである。
また、見解によって何でも哲学の考察対象になるし、宗教でいう真理"veritas, satya"に包含されることを忘れないでほしい。
これを帰一のもの・ユニバース"one, unus, universe"というが、万物"all things"であって無量の多さでもあり、客体の如何も自由に考えることが可能である。
改めて科学の語源である"science, scientia"ということを考えてもらおう。





起草日: 20190426

2019年4月上旬から、私は学問に関する別の文章を書いていた。
(2019年4月26日時点の文章内容を以下に引用する)

(前略) 少し社会科学に近い話をしよう。
学問において今も一般の日本人が「文系・理系」、「右翼・左翼」、「中卒ないし大卒」の観念にとらわれている傾向がある。
Twitterや2chでそういった思考や価値観を披瀝する者は多く存在するようであるし、インターネットのニュースサイトもその種の記事を発し続けている。
私はそれを、14・15歳のころから、センシティブでヒステリックである異常事態だと忌避していた(cf. 2016年10月21日メモ帳記事)。
今に平成が終わろうとも、きっと多かろう。
これらは単なる即物的で功利的な者たちによって学問に非ざる世俗性が示されたに過ぎない、と私は考える。
「知能が優れている基準を挙げれば知能は物質的集合体でしかないという即物性で否定し得る」し、「作文能力は…」、「計算能力は…」、「社会的効能は…」、という文系でも理系でも分野とその人々の優劣を言おうとすれば、みな論理破綻・自己矛盾の側面が見えてくる。
目的によって優劣や効能が問えるというのに、自分の人生経験や精神性から得られた目的を鑑みることなく、各々の物差し・尺度で物事の客観性を決定することは、独裁国家の首脳と何も変わらない。
返す刀で己を斬るか、木登りで赤き尻を曝すサルか(私が活動し続ける分には私自身も同じようなものだが)。
「各々の物差し・尺度」とは、個人の人生経験・精神性から形成された疑似客観性"pseudo-objectivity"であり、誰でも我が身の五感・心とで価値判断ができる。
あたかも地球上の物質の状態と運動(e.g. 動物の歩行, 音の振動による伝播, 水の沸騰)が地球の重力"gravity"(拡大して外部の天体の引力いわゆる万有引力なども)や気圧などの条件下で通用するように、疑似客観性が過去・現在・未来の万事万物を発生・維持する。
人間や動物が重力などによる相対性"relativity"を自覚しなかったように、Homo sapiens sapiensの者たちが疑似客観性"pseudo-objectivity"を自覚しないでいる。

ある日本人は「権力を持つ政治家が要らない」と言うし、ある日本人は「大衆を惑わすアイドルグループやビデオゲームが要らない」と言う。
真面目な活動家や研究者を「暇人だ」とも言う。
これらの言葉を用いる者が多い日本語は、醜い言語となる。
日本人が言うところの文系・理系の人が日本人の尺度で社会に役立つかどうかという基準も、毛沢東思想には通用せず、「学者や知識人は多く要らない・糞の如き存在」とみなされて肉体的に抹殺されることになる(e.g. 臭老九"stinking old ninth"というが毛沢東主義の有力者による典拠は不明。過去の元朝"Yuan dynasty"でカースト制度があった際に10のうちの9番目が儒学者とされていて売春婦と乞食の間に位置付けられたことに由来し、知識人=知識分子に対する蔑称として毛沢東主義者が用いたそう)。
「文系・理系」分別などは今の俗な用法によって学問全体の支障・停滞にさえなり得ると思うし、そう用いる者たちが何か学問とその研究者について公然と発言することは望ましくない。
私が中卒ニートひきこもりとして、一人で多分野(即ち無分野・空虚な分別概念)に取り組む姿勢を示し・人々に見てもらうことで、もっと多くの分野(専門分野)の研究者が相互に尊重できるようになることを念願している。
誰であれ、世のためになることをしているはずであり、それが人の意志によるならば、これを蔑ろにするような思考と言論とは平成時代のうちに終えられるべきである。
私は何の専門家でもなく、普遍性への探究者であるが、まじめ・実直な専門家に対しては尊重しようと思う。
大学などで没個性的であっても師匠・弟子の形式で学問を行う人々がいれば、私にできないことをしているので、それとして尊敬に値する。
音楽のうちの演奏者も歌手も、美術のうちの画家も彫刻家も、師匠・弟子の関係のそれはよい。
特に意思がある場合に各々、そのままに目的を掲げ、邁進すればよい。
内心の自由を許すが、学問の人は自己に対しても他者に対しても無自覚の尺度(個人の人生経験・精神性から形成された疑似客観性"pseudo-objectivity")で優劣の判断が生む利益は無いと知るべし。
無自覚の尺度で優劣の判断をしたならばすぐに自覚・反省してまた目的を顧みて努力すればよい。

萌えの典籍などで散々、私が記したことをまた書いてしまった。
ネット弁慶ならぬ「ネトナカノ・ダ・ヴィンチ(ネットの中のレオナルド・ダ・ヴィンチ。音変化はベンケイ→ヴェンケイ→ヴィンキ→ヴィンチ)」が誕生することを願っている。 

それはYouTubeに投稿する動画説明文の案であったが、社会科学の話題に関する主張が長きに過ぎるために、独立記事にする案が従来あった。
2019年4月26日に当記事を起草することで決行された。

上の引用に「萌えの典籍」について一度言及される。
その件は、興味のある者が各自で調べればよいとしよう。
ここでは科学に関して言及した萌えの漢詩・偈を抜粋する。
「地球偈 (ぢぐげ Sino-xenic: *digu-gat  Sanskrit: *medinī-gāthā)」と称され@、萌類(みょうるい)たちのアンソロジー形式で詠まれている。
以下には多多嚩(たたば)と阿若(あにゃ)のみを載せる。

(多多嚩誦曰)
地球如舞臺 有悲喜怒愛 人類踊其上 永苦後死來
他口舌爲聲 是諸法螺貝 聞歌作亂動 終受堕獄罪

(阿若誦曰)
地球中所有 咸從重力性 雖心法最重 隨時宜學之
佛法與物理 是等倶大事 若不依重性 原萌不應生
須觀諸物理 甜果從樹離 不得浮而落 是重性使爾
若原萌不生 無人形萌名 如是知物理 則欲去苦境



科学の教育・社会・世俗の話題と関連する記事↓
2015年4月24日投稿『両親の学歴・職歴についての調査と記録』
https://lesbophilia.blogspot.com/2015/04/blog-post_31.html

この両親(父: 駒澤大学不明部 母: 帝京大学薬学部 離婚済み)からは、科学性(人間の科学的態度)も文化性も協調性も看取されづらいことが、過去の膨大な記録文書のうちに示されている。