2016年7月10日日曜日

真の健康法の弁証 ~ 既成の健康知識に飽きた現代人へ

まず欲望があるとし、その欲望が満足されれば、これから起こる欲望を肯定する心理が生じる。
それが欲望を起こし続けてやまなくなるか、その極致でようやく満足が得られても、満足の心境や生活状況を持続できない場合が多い。
好例は現代文明の「スポーツ・飽食・便利な生活」を享受できる富裕層である。
仮に欲求満足を死ぬまで持続しようにも、不覚の急所を補えていない(非常時を想定していない)と、稀な幸運の者しか叶わないし、ましてや万人・大衆が実現できるという普遍性が無いし、ごく一部の人間は虚栄に用いる(民主主義・上流階級の理想は人類平等であろうに)。
奔放に欲望が起き続ける健康は「真の健康」と到底言えない。

「生老病死」の四苦は誰にでも必ずあるから、これを心の奥底より打ち克とうとしなければ、安楽が崩されようとする時に大なる苦しみ(自覚できずとも)を受けるため、真の健康に遠い。
「真」とは絶対性である(後述)ので、心身ともなる健康が崩れない境地は「真の健康」と呼べる。
「真の健康」には特別な道具も食事も費用もいらず、道理が分かれば多くの人が今の生活のままに実現できる(一定の自由がある前提だが)。
さて、真の健康とはいかなるものであり、どのように実現されるか、しばし開陳する。



真の健康法は己が内にあり、どうであろうか?
世の人々を見るに、どういう食事法であるとか、何を食べるとか、どう調理するとよい(焼き加減)など、「即物的観念論」にとらわれている。
また、テレビや雑誌などの通販に、こういうサプリメントだとか栄養補助食品で「何キロ痩せた」、それらや化粧品などで「綺麗になった・見た目年齢何歳若返った」と、実証的な宣伝がされているが、これは人によって「胡散臭い」と思うかもしれない。
私はそれらの方法論や製品に関する疑義を、ここでは述べないでおく。

そして、何よりも「昔の日本人は健康的な食生活を・・・」などという評価は、むしろ昔の日本人の心に背いていよう。
食生活は時代背景による食料のあり方と、精神性による結果的なものであり、それを現代人がありがたって真似する様はお笑い種である。
何を食べるとか、どう行おうとかと、形だけを真似しても、派手なメイクや美容整形で繕う欺瞞的な人々と大きな差はない。
みな、現代的な思想に毒されていて大事なものを見失ってしまった姿である。

我田引水となろうが、伝教大師最澄さまの素敵な言葉を引用する。
「法華経を贊(ほ)むと雖も還って法華の心を死(ころ)す (法華秀句)」*1と。
これは、法相宗・三論宗という宗派の高僧たちが、法華経というお経の注釈書を作って法華経を讃えたが、それら宗派の本心は唯識論などを尊び、「法華の一乗」の思想に背いているから、「彼らが法華経を讃えることはかえって法華経の心を殺す」、そう最澄さまは説かれている。
今の日本人の一部は、平安貴族が豪遊していた(高等遊民?)とか、官僚が高収入だとか、ナンタラ造りの屋敷が壮麗だとか、そんな夢想ばかりに耽っているが、これは「昔の日本スゲー!カッケー!」と讃えているようでも、かえって昔の日本人にご迷惑ではないか。
子孫末裔である我らが、時に先人を悪しく讃えるが、先人は虚栄を誇りたくてそんな生活をしたとは限らない。

健康法の話に戻すが、要はそういった心も知らずして徒らに妄りに、昔の日本人は何を食べて健康的だった、理想的な食生活を取っていたとかと科学的実証をした上で多大な評価をするが、どこまでも先人の心には遠ざかっている。
真の健康法は食事療法・運動療法などではないため、真の健康も得られないことであろう。
健康に関する俗悪な諸々の書籍など手に取るに値しない。
「食事と運動のバランス」が健康の肝要である通説には一理あるが、それだけでは不十分である。

特に、ダイエットなどは、自分の心を律していれば自ずと痩せるものである。
これは単純な精神論にあらず*2
そもそも、「自律」ができていれば過度な状態に陥らないはずであろう(特異体質など例外を除く)。
仏教で、少しポピュラーな言葉に「少欲知足(欲を少なくする・足るを知る)」がある。
この言葉自体、「健康法」とは何ら関係はないし、仏様はそんな現世の延命のつもりで説法をしなかったろうが、実際にこの精神性が「良薬」と思う。
世のことわざにいう「良薬(は)口に苦し」の「良薬」とは、「物体としての薬が良品ならば苦い」という矮小な見解で捉えてはならない。
一億総精神病患者であると自覚し、仏教という最上の良薬を須らく取って服すべし。

※精神云々も西洋の概念で近代の訳語だが、便宜上使った。精神医療の業界はしばしば「薬漬け」の問題が取り沙汰されている点など、薬全般の普遍的問題の顕著な例が判然としている。



真・俗の二義あり*3
真は絶対性、俗は相対性に約す。
真と俗、これを現代語で具体的に示すと、精神と物質(肉体)、心と形(物)ともいう。
だがまあ、凡夫(全人類)の精神や心そのものを以て「絶対的真実・真理」と言わない。
人の心とは、別の外形的事象に流されるからである。
いずれにせよ、心の動き(判断)から行動が発生し、物事の状態が決まってゆくことも人の世の常である。
私が披瀝するところの「真の健康法」では、このうちの「俗」と称する科学的な健康知識も多少取り入れ、真・俗も不可分の立場を取る。
仏教の僧侶も「俗の道理を踏まえねば真の道理を得ることはない。真の道理を得ずして涅槃(当記事でいう真の健康に置き換えてよい)を得ることはない」と説いた(脚注*3にも少し引用)。

故に私は、「悪い食べ物を食べても問題がない」と極端な結論を言うつもりはない。
物心一如の上から真っ当な論理を述べるにあたり、今の日本人は「物・心」のうち、後者が著しく欠けている問題を提起する。
健康的な食事や生活を求めることは構わないが、その物質面に先立つ精神性を得ることが急務でなかろうか。
それだけでも自然と食事や生活などの全てが適度に整って健かになろうから、栄養学的知識・摂る食品の良し悪しや効能などは、その後に考えればよい。



むしろ、ややもすれば今の日本人はくだらない精神論(綺麗ごと)を垂れ流すわけだから、私の所説が精神論という領域に押し込まれることは、相対的(綺麗ごとに対する比較)ながらあり得ない。
最も普遍的で世界中の誰もが行える、いな、本来の日本人の能力であったものが、100年以内に失われ、今や日本人は夢にも思わない。
私の言う真の健康法とは、「健康法」と称するまでもなく、実に本来の日本人の生活に具有されていた。
ただし、それを忘却して久しい現代では便宜上、真の健康法と呼ぶに値する。

「真の健康」は、人間の性質として具している(性具"しょうぐ")。
「真の健康法」は、これを自覚して呼び覚まして維持することである、と言い分ける。
真の健康は、必ずしも「平均寿命より長生き(長寿)」とか「無病」などという結果を指さない。
本来の身体的機能が精神によって再起し、心身ともに「人間らしさ」を可能な限りに取り戻すのみで、それ以上の健康体(不自然な手段による)を望めば、すでに真の健康ではない。
しかし、精神面の健康を得たことで肉体面の健康も同時に自然と得られる人は、全員とまで言わずとも確実に増えるであろう。
世間の健康食品などの宣伝では、使用者(愛用者)の声だとか、○○健康法を実践してそちらの面の健康を得たという人の話などを載せるが、私はわざわざ他人の実例(セーシンが優れている人)などを示さない。



仏教には「八万四千の法門」という言葉がある通り、多くの教えや修行法がある("八万四千"は数の多さを表す比喩で文字通りの数を意味しない)。
健康法に関しても「○○ダイエット」だけで凄まじいほど喧しく聞かれ、虚実・ピンキリ、様々な方法論などが飛び交う。
テレビやネットやチラシや雑誌の通販にもまた、虚実・ピンキリ、様々な製品(健康食品や運動器具など)が夥しくあり、その効能を鵜呑みにして信じる消費者もいれば、消費者庁の改善命令ほか、行政や司法の介入で制限が入る例もある。

種々の通販は、世にいう「新興宗教の勧誘」などと何か異なるであろうか?
信じることで宣伝される効能以上の結果を出す(プラシーボ効果?)者もいるであろうし、「何だこれ全然効果ねーじゃん!」と難癖を付ける者もいるわけだが、結局のところもっともらしい実証を顕揚すれども、宗教の神秘性を過ぎない。
それらの製品や方法論の信者にせよ謗者(批判者)にせよ、特段、私から侮蔑はしないが、詮ずる所はインチキ宗教と同類である。

製品という物体にお金をどれだけ出せるかと言えば、私は最初からその健康的御利益に期待して出費などしない。
先述したよほどの「悪い食べ物("悪い"の認識も人によるが)」でない限り、食えれば何でも良かろう。
逆に外形的な手法や物質にこだわると、体がそれに慣れて効果が薄まったりする。
しかも、体の本来の身体的な機能の低下のために常にそれを取り込まないと、心身の維持が困難となることは誰でも知っていよう。
依存症の負のサイクルなど、今どきの子供は学校・教育機関で教わる。

この原理を逆手に取れば、身体の免疫機能の原理となる。
微量のアレルゲンを経口摂取することで、アレルギー物質への耐性がつく可能性もある。
効果の鈍化の原理(マイナス系統)と免疫機能の原理(プラス系統)は人間の身体の善悪二面性=表裏一体*4であり、進化の賜物である。

薬物中毒はもちろん、多くの薬の常用、カフェインやアルコールも同様であり、広げればすべての食品や含有成分にも微弱ながら、その性質が備わる(摂食量が適正を外れて多ければ満腹感が緩んでいくことは好例)。
俗世間で言われるように、貧しい人(貧困な国民)が過酷な環境でも丈夫で心身とも元気だったり(ただし寿命が短い)、反対に衣食住が調って雑菌・ウイルス・アレルゲンに弱くなったり、心身が緩むとか、時間や金銭に余裕があるうちは慢心して怠けやすくなるとか、こういった方向にも敷衍できる。
与えられるままだと自ら要求・生産・維持するという能力を失う道理と同じ法則は、どこの世界や物事にも敷衍できる。
だから、単なる物質(何の成分・栄養素が何ミリグラム配合されているなどの製品の能書きも)に拘泥するだけでも迷信(科学的民間信仰)じみているのに、効能があればあるほど心身ともに麻痺してしまう悪因となるから、ゆめゆめ注意してほしい。
依存するにしても、例えば重症の入院患者の点滴だとか、打ち上げロケットの燃料タンクみたく、一時の補助(方便)として利用しながら、いつかは切り離すべきである*5



まるでこう書けば、西洋的啓蒙思想にも通じているようである。
啓蒙思想風に言えば、「栄養素」などの数値や、最近(ここに加筆する2016年5月現在)の世間で不正が取り沙汰されている自動車(日産の傘下に入る三菱自動車)の「燃費」の数値など、こういった数値は経験的知識とならないから、一般人が気にしてもさほど有益でなかろう。
これらの数値は科学的にもっともらしく実証されているように見えるが、それでは一介の利用者や消費者がどう実感できようか?実利的価値がどこにあろうか?
信じるだけで気分が軽くならなるばそれでも良かろうが、過度に気にしては全く愚の骨頂である。
やはりこう見れば、現代日本人は万物に神秘的な価値を求めなくなっても、実在しそうで実利的価値がありそうな物事を無節操に過信する点で、宗教的な盲信が強い。

燃費の数値の不正といった偽装問題の有無を問わず、多くの実証的数値は過信すべき対象でないと知るべし。
栄養素の成分表だとかは、「健康管理」がよほど必要な患者以外、細かい数値を精査しても、一般人の肉体的健康に資するものではないと諦念を持つべし。
だからこそ、精神的な浄化に立脚した「真の健康法」によって心身ともに健全となろう。
健康に関する世俗の知識の多くは執着の元であり、ひとまず離れてみる必要がある。
ただし、その知識を目安にもせずにいろ・骨組みごと取り払え、という意味ではない。
そんな外形的な要素を信じてばかりの現代人は、一度自己に具わる「可能性」を振り返られたい。
己の可能性に気付かなければ、仏教でいう「一切衆生悉有仏性」も空言となってしまう。

一切衆生悉有仏性、すなわち「人間(ひろげて山川草木の万物)は誰でも仏に成れる」という教理は、「一往」の教理として釈尊がお説きになったのであり、「再往」の事実上は、これを聞き知って目覚めなければ、仏性は有って無きが如し、となる。
これを天台教学の「六即」で言い直せば、成仏できる可能性を持つ一切衆生は単なる「理即」、その教えを聞き知った衆生は「名字即」であり、実際の成仏まではまだ4つの段階がある。
PCに例えれば、PCに電源を入れていない状態が「理即」で、電源が入った段階は「名字即」、次いで起動作業中の段階や、パスワード入力してサインインした段階、何らかのソフトを開いた段階、すべき作業を処理した段階などがある(適切な譬えになっていないようで非力を嘆く)。
電子機器に電源を入れなければ用をなさないわけで、仏性も、ただ持っているだけで悟りを開くことは無いし、その教理だけを聞いて「アリガタヤーアリガタヤー」と感嘆してお終いではない。

自己の可能性を説く教理を知ることをきっかけとして自覚・維持することが、己の功徳となって真の健康に繋がる。
これは「戒・定・慧」の三学に通じるが、「自覚・維持」と言う場合は「定・戒・慧」という順序となる。
三学または六波羅蜜でいえば、「真の健康の性具」の自覚は禅定のようであり、維持は持戒・精進と言う。
そうして自然と、心身の健康の増進に繋がることは智慧の獲得という。
こういった精神性の向上が真の健康に向けた土壌を育むこととなり、そこで初めて生活全般も可能な限り改善され、ゆくゆくは長寿だとか無病息災といった結果も得られよう、と言える。
繰り返すが、その健康的御利益は真の健康の道の外であり、直ちに求むべきものでない。

斯く言う私は日々、精神的には希望を淡く持ち、肉体的には問題(便秘など)の緩やかな改善傾向にあるが、同時に日々の生活の中で所作(行住坐臥の四威儀)や言動や思考に注意を払ってこそ、心身とも良い状態が維持できている。
在家の修行者なかんずく閑居求道者は「自室即道場・生活即修行」と肝に銘じよ。
やたらと良質の食材を使って調理法に凝った料理や、必死な形相で街路を走らずとも、素朴な食事と最低限の注意を常に保った生活をしていれば、それで食事と運動のバランスは満たされる。
神秘的な御利益があるわけでもないが、一喜一憂に溺れることもない。
そんな私を上回り、穏やかな海面や湖面の在り様に、ただ心を和ませる境地が、真の健康であろう。

世間に溢れる健康情報に飽き飽きとして来た人は、いち早く真の健康を志向すべきである。
私の所説が気にくわないと思ったらば、いくらでも健康食品や健康器具に散財浪費し、運動やスポーツや方法論の実践に汲々としておればよい。
ただ私は、前代未聞の健康の境地を説示するものである。





私が真の健康に関するイメージを追究するに至った一例を示そう。
水を飲めば、期待通りに水分補給が叶おうか?
または便秘の改善に繋がろうか?
誰もが、そう聞かれれば肯定するであろうが、私は過度な水分補給が逆効果を起こしているように捉えており、「何事もバランスだ!」と主張する気はないが、やはり水分は不必要に貪ってはならないし、多くの食品も、効果を期待して多く摂ることは、かえって問題となろう。
断食や食糧不足において、水を食品の代わりに摂取するにも、分を弁え、量を知った方がよい(足らない場合は糖分や塩分を適量加える、加える動作の過程で飲食を行う実感を持つことで少量ながらに満足感がある)。
どの医薬品やサプリメントにも「用法・用量を守る」旨が注意書きされており、水についても同じように注意せねばならない。

外形的な物質に理性から依存を始めると、体もその物質の摂取にばかり機能を依存してしまうから、本来の身体能力(自然治癒力)も損なう。
そのために、過度な水分補給では、かえって喉を枯らし(物理的に一時のみ潤う程度であって液体に糖分が含まれていれば酸に変わって気持ち悪くなる)、肌を乾かし(特にただの水やぬるま湯では期待するほど潤わない)、排尿される一方で便秘の改善はされない。
それは個人差があり、あくまでも私の実感としての話だが、真の健康においては物質への執着や依存の心が、身体機能までも依存させ、自立的な健康維持が困難となると弁えねばならない。
必要最低限の分量できっかけを与えるのみで、後は身体の作用に任せる方法が最善である。

外形的な物質や手段に頼る傾向は、現代人の日常生活に多く見られる。
歯磨き・風呂・髪洗い・体洗いといった習慣も、毎日きっちりと行う必要はない。
現代人に染み付いた「やらなきゃ不健康・不衛生・キモイ」といった強迫観念であろう。
「自浄作用」なる語彙があるよう、実際に身体は自浄作用の機能(免疫など)を備えているが、現代人のような習慣が無いか薄い昔の人々は、平民も貴族もみな野獣同然の不潔さであろうか?
昔の人々の寿命の長さはさておき、決してそんな風に蔑視しないでほしく思う。

私は歯磨きであれば、「風呂(シャワシャン)」の最中にのみ行い、普段の食事では、口に残る糖分や、それを餌にして細菌が生んだ酸を流そうと、少量の水で口を濯いで飲むのみである。
「風呂(シャワシャン)」という言い方の通り、湯船に水を張ることは2010・11年から一度も行わずにいる。
・・・ああ、そうか、もう最低でも5年経つのか、と振り返ってしまう。

ともかく、それらの衛生観念・強迫観念といった執着からも一度は離れることが「真の健康」への入門となるから、これを志向する者は人目だとかも気にせずにいてほしい。
とはいえ、歯磨きをしないと口臭が酷い、体を洗わないと体臭が酷いから人間関係に問題が出るなど、思い煩う面が強い場合には早急な移行が難しかろう。
「真の健康」は、元から当人の精神や肉体や環境の適性が求められるようで、人を選ぶらしいし、当然、魅力を感じないならばそれでも良い。
プロテインの栄養剤を大量に摂取してムキムキのボディビルダーなどもまた、健康か否かを別とし、一つの生き方として咎める気はない。



「自分が変われば世界も変わる」とだけ言えば実に安直で疎漏であり、反発を招きやすく、そう言うだけの一般人ら*6は不親切の極みである(私の場合は寧ろその不親切さが成長に繋がる)。
いきなり答えだけを言って理解させたがる一般人らは、浅薄であり、思考放棄であり、急進的思想に毒されており、丸暗記の学習を是とした現代的教育の傀儡である。
この意義を詳細に説明すれば、自分が変われば他に自分と影響のある物事は、その分、比例して変わり、また、自分から他の自分と関係の深い物事の扱いも変わる、といった具合に相互の影響を示す。
自・他」や、「内・外」といった対立概念の一体性*4など、仏教や東洋の哲学思想を学べば、その真意を理解しやすくなる。
「真の健康」においては、自分の内なる意識や精神状態が変わることで、他人・外界の、自分に対するあり方や、その逆に、自分から他人・外界への扱うあり方も変わると言える。
だから、外形的な要素は後から自然と変わる、私はそう言い続けるが、こういった意義も学ぶ中で理解しやすくなる。



2015年10月29日に書いたとする文章は、当記事の意味を大いに含んでいる。
その趣旨は「可能性の自覚をし、自然と自律がなされ、自然と願望の成就に近づく」と。以下に一部分を引用をする。

道心があれば、その各々が「不善」と思い悩むことは自然と改まる。というよりは、あるべき「善」に還るのであろう。「善悪」といえばおよそ観念的で、個々人の主観に基づく面は多いが、とりあえず各々が「酒・タバコの使用(飲酒・喫煙)は悪いな~」等と嫌う悪は、道心を持つことで自然と直るものである。
(中略)
道心より、自然と希望も生まれるし、私は成人以後も飲酒・喫煙はしない方向でいよう。されば、禁酒・禁煙が難しくて悩んでいる大人は、アレコレと策を練る前に、清浄の法を学んで改悔し、道心を持つところから始めるべきことを推奨する。



なお、仏教に通じた健康法とは、誤っても断食や一日一食(不非時食戒を持つ)という形式的な方法論そのものを指さない。
ましてや正しい修行者は、健康御利益のために断食や一日一食を行うことを決してしない。
単なる健康法としての実践は、沙門覺應さん風に言えば「勘違い仏教」であろう。
それらの実践で誰もが、個々人の理想とする「健康」を得られる必然性もなければ、仏教上の意義を理解して行い、結果としてたまたま「健康」を得られる場合がある程度のことで、「肉体的健康」自体を断食や一日一食の目的としない。
かえって世間でも、一部の専門家らは「体に悪い」と訴える(一学説)わけだから、断食などに健康御利益を期待する者は外道でしかない。
無論、仏教上の意義を踏まえた修行であるか、一種の精神修養のつもりで行う分には、何ら咎められない。
いわゆる「入定」などで灰身滅智の解脱(無余涅槃)を完成する上で断食を行うことも否定はしない(それで解脱ができるかを私は論じ得ない)。

だが、一時的な禁欲とは、本当に「一時的に欲を禁じる」程度であってはならない。
その点で信仰の中から形式的に断食月間(ラマダン)を設けるイスラム教は愚昧であり、こう見れば一時的な禁欲がいかに無意味な行為であるか実感できるし、仏教ではそういった無意味な修行などは「戒禁取」といって奨励しない。
また、食事に限らず、男を磨くなどの下心で一時的に自慰行為を禁じる「オナ禁」も同様である。
真の健康を志向する場合も仏教の解脱を求める場合も、人間にとっていきなり相対的に落差の大きい行為に及ぶより、漸次目的に進む行為こそが奨励され、摂食方法であれば「少欲知足」を旨とすべし。
少欲知足は、相対的で時宜に適う基準が良いから、太っていても痩せていても、細かい基準は気にせず、その人の腹八分目など、今現在よりも少ない量を心掛けておくべきであるが、人によっては一人で適正な判断ができない者もいよう。
ただ、真の健康の観点から言えば、自戒する努力の心が大事であり、これを弁えれば自ずと少欲知足が実現される。
仏教の妙なる教えで、苦も楽に変わると思えば、軽度の空腹にも沸き立つ喜びが感じられよう。
仮に少し食べすぎた時も、反省して改善する努力の改心を起こせばよいのである。

一方、極端に太っている人間が過激なダイエットを行うなどは、何も大事なことを学んでいないためにそう太り、何も知らないためにそう痩せようとする愚昧な発想でしかなく、大概はリバウンド現象にすら陥る。
理論上、過激なダイエットを行って痩身を得て維持できるものの、それはその才能や環境がある場合に限り(断食などにしても才能や環境が不足しては)、実際上、多くの者には不向きである。
いきなり理想を実現しようとする急進的思想は、かかる愚物の所業と判じて唾棄すべし。

あらゆる例からして真の健康法は、元々心身ともに一定の健康が求められるようであった。
仏道もまた同じことであり、現世での修行が身体的・精神的に無理ならば、その求道心・菩提心だけは念じて来世に再度人間へ転生してもらうしかない。
せめてもの慈悲として、私は仏法の妙音を多くの者に聞かしめ、人々に聴聞の功徳を得せしめんと思っている。





起草日は2016年4月29日以降であり、同年5月10日までに加筆が続いた。
それを一区切りとし、その内容を大幅に補う記述(未整理状態の場合は以下から)を2016年5月14日から開始した。
そんな中、5月23~6月1日まで何も加筆しない時間も挟んだ。
以後も加筆が断続的に続いた。

漢語の名称は「則真健康法」?「真義健康法」?「仏法健康法」?
パーマリンクの文字列は http://lesbophilia.blogspot.com/2016/06/the-way-of-true-health-is-within-us.html (新約聖書ルカ17:21が元ネタ)としてあるが、記事タイトルを直訳すれば"Proving the Way of True Health"となる。
思えば、最近の過去記事もパーマリンクが"idol-and-idea.html"や"musica-et-religio.html"など個性的である(どちらも文法が"○○と××"で一緒だが○○や××自体に面白味がある)。




脚注
本文の脈絡が崩れたり雑多になる問題を回避すべく、脚注の形式で記述を整理するわけだが、ここで読者に「脚注に押し込まれた情報は些末なんだ」と認識されては悩ましい。
確かに、相対的な本末関係はあるかもしれないが、であるが故に「本末一如」で、本・末のどちらも知ってもらいたい必要な情報である。

*1・・・この法華秀句における最澄さまの言葉はその後「故湛然記云」と続く。つまり、最澄さまの天台宗の源流である中国天台宗の高僧である妙楽大師"湛然"さまの「法華文句"記"」の「唯識滅種死其心」を引いて前言を補っている。法相宗・三論宗という宗派の高僧とは誰か、といえば法相宗の高僧は慈恩大師窺基さんで、三論宗の高僧は嘉祥大師吉蔵さんである。特に後者の吉蔵さんは「法華義疏」など、多くの論・疏を撰述した。これらの高僧らは法華経の注釈書や論文などを多く撰述しながら、実際には唯識・三論・華厳などの教学を第一義としていたようであるが、私は原典を通読する能力がないため、判断は難しい。そんな高僧らが法華経の注釈書や論文などを多く撰述した背景も不明であるが、天台大師智顗さまが彼ら高僧と交流があったり、先の「唯識滅種死其心」のように智顗さまの弟子・湛然さまが実際に彼ら高僧を批判していた様子である。

*2・・・仏教における心の立場は「願作心師・不師於心(願って心の師と作るとも、心を師とせざれ)」であり、自分の心は大事ながらも、自分の心に全て気を許してはならないと説かれる。だから、「自分の心を律する」大事は、単純な精神論ではない。徒らに心ばかりを重んじてはいけない。この言葉は曇無讖訳の大般涅槃經(大乗)に初出し、私の尊敬する日蓮大聖人も御書で引用され、一部禅宗の僧侶、とある現代の真言宗持戒僧Kさん(近年まで"婆塞"を名乗っていたから実は在家で寺院HP管理をしているだけの可能性も)なども引用している。同じく日蓮大聖人や法華経を尊敬して信仰した宮沢賢治さんも趣旨を詩に歌い茶道の人も放った言葉らしく、昔から日本人に親しまれてきた言葉である。また、大乗・小乗を問わず、心に染めておくべき釈尊の金言である。類義の経文として「爲心師・不師於心」が大乘理趣六波羅蜜多經に見られて御書にも引用されていた。余談だが、「自分の心を律する」ダイエットについては、仏教だと「パーリ語の相応部(経典の集まりの一つ)」や「雑阿含経」の中にパセーナディ王(波斯匿王)が行ったという話が載っている。世界初の体重減少ダイエット(the world’s first weight loss diet)とも言われる。

*3・・・大般若経では「勝義諦・世俗諦(玄奘訳)」の「二諦」とも呼称し、龍樹菩薩の中論では「世俗諦・第一義諦(先の勝義諦と同じ)」と偈に呼び、「第一義諦」は「不可説(言葉で表せない)」であり、「不得第一義 則不得涅槃(第一義諦を得ないと涅槃を得ることもない)」と説明される。逆に、仏教の解脱の一つである「涅槃」を得るには、真理を体得する必要があり、その真理の体得には、経典などの教説を学んで理解して覚えるだけでは足らないとも言える。それでも、一応は経典などを学ばねばならない。涅槃の証得に向け、「学ぶこと」に加えて「考えること・戒めること」などが、いずれも欠かせない実践(聞思修や戒定慧など)である。どれかを欠せば、不十分であるのみならず、誤解や慢心のために悪道へ堕ちかねない。「真の健康」においても、ただの精神論に終えず、実際の科学知識を多少折衷する必要もある。だから、逆に科学知識(俗説や迷信も混ざる)に偏重する現代人の問題も言える。バランス・中道の上から言えば、釈尊や御弟子も、肉体の不調や病気は「耆婆(ジーヴァカ)」というお医者さんに診てもらい、薬を服用したわけで、強ちに科学的見解や世俗の健康法を排除する思想ではない。過去記事にも、薬への依存を問題視しつつ、全面的に薬や医者を毛嫌いすれば「頑固な高齢者っぽい」と綴っている。要は、安易な薬・医者への頼り方は唯物論に寄り、反対に「自分は強い・心だけで病気を治す」という思想を貫いても唯心論に寄るなど、中道から離れる。異なる双方の良さを認めて取り入れれば、本来の日本人の「和」の心にも適う。

*4・・・例えば、科学技術で人類が急速に繁栄したり絶滅の危機に陥るなどというよう、問題解決の秘訣・要旨は、二面性の把握と表裏一体の悟りである。現代の上流階級は、そのような観点からも、環境問題や経済難といった現代の課題に臨んでいる。そもそも、人が問題を起こすことは、二面性のある物事の認識による。仏教では、それを因縁・縁起の法において詳説する。その因縁・縁起の法を、仏の教えとして聞いたり、修行する(常に念じて心を観察する)中で実感して「四苦」といった人間の問題を解決する。悟ったところで、肉体における生老病死は免れられない現実だが、そのような「苦」を感じる心と「現実とされる事象」が結びつくことは、因縁・縁起に基づくものである。修行が維持されること=精進によって堅実に因縁・縁起や「苦」が滅ぶ。苦が滅んだ人は価値判断も滅んでいるので「生老病死という事象は有ると認識できるが過去にも現在にも未来にも無いようなもの」となる。少し難しい話だが、「真の健康」に関して、このことも留意されたい。

*5・・・仏教の教義は、仏が「人々を苦しみから解き放たれるように(四諦)・偉大な智慧を得られるように(四仏知見)」という前提で説かれる「方便(便宜的手段)」である。仏教徒が聞く教義は方便であり、なされる修行も方便である。それは「川を渡るために筏(便宜的手段)は必要だが、渡り切ったらば陸路で持ち運ぶ必要はないばかりか、かえって重荷となる」というたとえ話で示される。ゆえに、何らかの教義を知っていたり、修行をなすだけでは、悟ったと言われない。そういった慢心を制御すべく、仏は筏のたとえ話が説かれたり、「教義を信じたり何らかの修行をするだけで人が浄化される(イコール人々が平和になると思われる)と主張するならば、主張する人はみんなすでに浄化されているのに言い争いばかりをしている(イコール平和になっていない、仏も彼らを救うために言い争いへの介入を辞さなかった)」と説かれた。これらは、初期仏教のお経(パーリ経蔵では中部22経、小部スッタニパータ4章9と12)にあり、漢訳された大智度論という先*3の龍樹菩薩が書いたという書物(うち一巻目)にも全てが紹介されている。

*6・・・近現代の日本人は、理性万能主義しかり(浅い人生観で神仏・信仰を否定するなど)と唯物論的であるのに、一方では「言葉はいらない」などの言語不要論・浅薄な唯心論にも陥っている。以心伝心、テレパシーでも使えようか?それで、「血眼になって長い論文を書く人間もそれを血眼になって読む人間も必死でキモイ」とか「シンプル言葉(片言隻句・片言隻語)ほど印象的で心に響く」などと放言する。シンプル錯誤・シンプル顛倒の低劣な言説である。確かに、下手な長文は煩雑だし、短い言葉で端的に力強く表された言葉は、そういった言霊というか、「心に響く」力があるのかもしれない。だが、長文などを全否定して闇雲にシンプルのみを肯定し、説明不足をも是とすることは顛倒である。現代で割と知性の優れている人物は長文を読まずに厭うことが無い。仏教での解脱も、教えをよく学ぶことは「"聞"思修」や「"戒"定慧」として必要な一要素に列され、不可欠である。この修練を欠かして大智慧を得られる者は、よほどの超人しかいないから須らく修むべしと説く。結局は極端に顛倒した主張や、浅識に起因する中途半端な思想しか持たない、知的怠慢と慢心の強い現代日本人は問題である。しかし、その無節操な自然性こそがまた日本人らしい



2016年6月20日月曜日

「19歳・閑居求道者」的政治観 ~ 仏教徒はどう投票すべきか?

今月22日に公示される第24回参議院選挙では、私のようないわゆる未成年者も、18歳以上であれば投票の権利を有しているから、投票が行えるらしい。
無論、閑居求道者たる私は、投票所へ足を運ぶことが無かろう・・・。
加えて、為政者の思惑が「主権拡充(他の民主国家の水準に合わせる)」か「政治の改善(若者に政治の関心を持たせる)」どちらであるかは不明だが、政治家の愚昧さは小手先の制度改革があったところで変わることも無かろうため、私に投票の意欲は沸かない。
しかし、多くの未成年者や、元より有権者である人々が誰も当記事を熟読しないとしても、一応、私の政治観を披瀝した方が良く思っているため、少々、開陳しておく。

前置きを挟むが、誤解なく捉えていただきたい言葉は「世法即仏法*1」であり、逆に仏法も世法に還元できる「仏法即世法」は、一種の道理である。
第二次大戦後の世界(主体は国際連盟UN)が欺瞞的平和に向けて「人権尊重・民主主義・人道主義」を掲げてきたが、これは仏教の教義にも通じる「中道」や、生命の尊厳を平等に認めるよう、世界中の知的階級の総意が自然と仏教に似てくることから「世法即仏法」の実相が窺えよう。
実際、穏健で平和志向であるから、主に先進国同士の軍事衝突が起きず、70年を過ごしてきた。
無論、そんな「人権尊重・民主主義・人道主義」で「世界平和」となるには不十分である。
また、私のように仏教を学んでいれば、世間の問題や、科学的知識など、一見仏教とは無関係な方面に対しても、的確な判断や、比較的正しい見解ができる現象をもって「仏法即世法」の実相が窺えよう。

「閑居求道者」は、何事にも仏教の中道の思想や自然性・漸進主義といった思考を踏襲する。
「閑居求道者」の思想を無理やり異称で表現すれば「さすらいびと・自由人・冒険者」である。
そのような境地を、現代の議会制民主主義の文明に置き換えてみよう。



【強いて現状を変更せず・善悪を認めて執着せず】

仏教徒は政治について思い煩う必要はないし、いわゆる「無党派」を恥じずともよい。
基本的には、現体制を維持する穏健な立場で、与党(及び擁立の候補者)に投票する。
現体制のままでも、自覚があれば緩やかに状況を改善することは出来る(その理想は何であっても出来るが、程度によって困難な度合いも変わる)。
自分(及び全有権者)にとって問題と思える事態が起きれば、その時に対処すればよいし、そもそもそのような事態は、最初から起こらないものと思えばよい。
仮に問題が有って世間に発覚しない場合でも、単なる一般人が詮索せずともよい。
悪事があればいつかは公に露呈しよう(天網恢恢・疎にして漏らさず)。
広い心・無量の心をもってどの政党が与党であろうと、その善悪を認めよう(ここでいう善悪の定義は個々人の思い思いでよいが無理に定義すれば社会通念上のものを指す)。
時間と空間に渡って普遍であり、分けず隔てず。

どんな人間も政党も、完璧なものはないし、汚点はあるし、仮に今は汚点がない場合も(最初は無垢でも)いつかは汚点を作る(私的なところで既に悪事に手を回している者さえいる)。
与党の政党も野党の政党も、「完璧はない(永遠もない)」という絶対的道理には外れない。
大した善悪がないまま短命に終われば、最初から何も言えない。
正当も不正も、清浄も不浄も必ずあるわけだから、それを認める前提は必要である。
「この政党や思想では絶対にいけない」という安易な軽蔑や、「この政党や思想ならば絶対に正しい・政治や経済を改善してくれる」という過度な期待などは捨てた方がよい。
端的にいえば、潔癖思想(衛生観念)やセクト主義(派閥主義)は捨てた方がよい。

細かい長所や短所を、誇大に取り上げては悪癖となり、己の思考が歪んでしまう。
政治家は自党の宣揚のために自党の政策の長所や、与党ならば野党、野党ならば与党の短所や汚点や過誤を責めるが、それは政争と称する今の彼らの仕事の一環である。
政治家でない多くの民衆・一般人らは、殊更に支持・不支持の論拠を強調せずともよい。

無論、一般国民の間の政治議論も全くの無意味とは言わない。
インターネットでも様々な政治議論があり、ある種の「直接民主制」に通じているが、それは現代社会の一面でしかなく、ましてや仏教徒が政治の些細な問題を論っても空しい。
仏教徒は、誰彼を嫌わず、温かい目で万事、静観していればよく、よほどの事態でもない限りは心を動かさずにいるべきであろう。
例えば、因縁あってカピラ城の釈迦一族を滅ぼそうとしたコーサラ国の毘瑠璃王と軍勢に対し、釈尊が道中に座り込んで引き返す暗示をされたように泰然としつつ、3度の撤退をしてなおも毘瑠璃王の恨みが止まず、釈尊は両者の深い因縁を知ったときに彼らを強いて制止しなかったように「自然」へ随う(ちなみに両族とも釈尊の信者)。
この故事は四分律や増一阿含経など(コーサラ国王の名は琉璃王・流離王などと記載)に見る。

仏教を学んだはずが、「安倍は悪魔・アベ暴走」とかと口走る輩も多い。
そんなに安倍政権が憎く、危険と思うか?政治への不満に怒りを燃やすか?
安倍さんの10%への消費増税は、大規模な災害や金融危機などの不測の事態が起こらない限り、予定通り実行する意向を見せ、一見頑なに見えたが、熊本の大地震やG7の会合を経て再延期が発表されたよう、彼は時局に応じて腹を割る決断もできる(その良し悪しはともかく)。
政局は未だ火急の事態にあらず。



このように理解しながらも、思考放棄に陥らず、事大主義的な投票行為や、惰性の投票行為とはならないほどに思考を維持できる者は、この政治観を踏まえて投票すべきである。
どうしても、その政党の過去の汚点(所属する政治家の不祥事・可決された忌まわしい法案・外交での弱腰による失敗など)が拭いされないという潔癖思想の強い者は、好きに敵対政党を支持すればよい。

中道の境地を志す者には、よい言葉を残す。
私は仏教を信奉して禅宗は嫌うものの、禅宗などで尊ばれる「菜根譚」から紹介する。
風、疎竹に来たるも、風過ぎて竹、声を留めず (風來疎竹、風過而竹不留聲)」と。
また、中阿含経にいわく「愼みて過去を念ずること莫れ、亦た未來を願うこと勿れ。過去の事・已に滅したり、未來も復た未だ至らず (根本分別品・温泉林天經第四・跋地羅帝偈)」と。

このような無為自然・中道の境地を、今すぐでなくともよいので、学んで知らねばならない。
ゆっくりでよい、着実に堅実に、いつかは・・・、「漸進主義」である。
つまづいても虚心坦懐に反省し、努力のため立ち直ればよい(これまた難しかろうが)。

人間は正当も不正も、清浄も不浄も持ち、誤りは絶対ある反面、改善の可能性も有している。
政治家や政党であっても、過去に汚職や失敗などを重ねているが、それを隠さず、それでいて強く悔いず、素直に認めて反省と努力の改善ができるはずではないか。
もっとも、それが出来れば、の話である。

しかし、それが政治家や政党に出来ようと出来まいと過度に期待せず、また、最初から「無理に決まっている」と決めつけず、ほのかに信じてあげればよい。
こういった「甚深微妙・玄妙深絶」の境地において考えられる人々が、日本に2割くらいでもいるならば、残りは愚民のままでもよい。
賢愚の差別を認めて「」を生み出す。
ご覧の「あなた」、そう、「あなた」がまともに思考を維持できる人間であれば、その2割の賢人となるべきである。



みんなが一様に、漸進主義や中道の思想から与党に投票しても、議会制民主主義として成立しづらくなる。
邪悪なる共産党・カルト公明党(と世間に言われる)、これらも強ちに排除する必要はない
かといって盛んに支持する必要もない。
人間の禍福とは個々人の思い思いによるし、人々の中の幸福とも不幸ともいえる結果が訪れようと、もはや結果論であるから、強く原因を責めず、また強く幸福を望んでもならない。
先に引用した「愼みて過去を念ずること莫れ、亦た未來を願うこと勿れ」という中阿含経のフレーズはこの意(こころ)である、と再度説示する。

賢愚の共存は、いつか大いなる調和となって緩やかに改善に向かおうことをほのかに信じる。
そうするうちに、今まで方便として語った「民主主義」なども全て「用済み」となり、世界中に真如の法である仏法が普く流布されようことをほのかに願う。
閑居求道者の願う世界平和とは「天皇陛下の『和』による八紘一宇の政治、人類への仏教広宣流布・受持」に基づいていなくてはならない。

「乃往(そのかみ)の 大和(やまと)の心に 生きつれば 右と左の 隔ても消えつ ("ゲンダイのニホン"に対比して"いにしへのみずほ"とか"そのかみのやまと"と呼べば面白い)」
「イデオロギー上の真正中道・仏法と世法の融即イデオロギー」



ここまでは綺麗な話で続けられたが、ここからは少し細かい事例などに穿って書こうと思う。
当然、与党への投票や、自治体の首長を決める選挙の場合、与党が擁立する候補者ならみな支持すればよいわけではない。
こういった事例は、投票したければしっかりと吟味した方がよい。
それでも、よほど酷い政策や酷い思想が見られない限りは、支持の集まる候補者に投票してよいと考える。
その「酷い政策・酷い思想」の基準は、投票権を行使する者たちの判断に任す。
仏教の思想を踏襲しつつ、世間に関する知識を些かでも有していれば、自分の選んだ候補者が醜態を晒すこともなく、不本意とはならない。
そう確信すべきである。

政党の政策や方針についても、例えば憲法改正*2や外国人参政権など様々な議論がある。
これも、各自で良し悪しを吟味し、更にその政党による実現性の有無も推定して投票の判断を行えばよい。
仏教の思想を踏襲しつつ、世間に関する知識を些かでも有していれば、自分の選んだ候補者が醜態を晒すこともなく、不本意とはならない。
そう確信すべきである。

余談だが、最近、政治資金などの不正という、影の悪行が露呈した舛添都知事は、2014年の都知事選挙がある前から、不適任の印象を私は持っていた。
それが、猪瀬・前都知事の功績である2020年東京オリンピック関連に、様々な問題(ザハ案の新国立競技場撤回・アレ服装盗作・エンブレム盗作・ABCDエンブレム欺瞞選定・出来レース審査)を起こし、最後には自身の馬脚を露すという、稀に見る悲惨な東京都知事であった。
オリンピック競技会場の既存施設活用については良案だったかもしれないが(ザハ案切り捨ては別問題)、自分が豪奢でいるのに都政で倹約を求める(庶民派を気取る?)となれば、実に自己矛盾も甚だしく、認めづらい(舛添さんの政治資金問題の論点は"公私混同"だが)。
政治家は常に、遁走する手段を持って行使できる。
東京の大舞台を自ら汚し、汚職の発覚を問わず、五輪までには任期を終えて跡を濁し得る。

程度の低い話題になったが、ここでは、必ずしも与党やその候補者へ投票すれば適切であるとは言えない例を挙げて念を押したかった。
無論、個々の政党や政治家がどうなろうと、また、それらが何をしてきて政治や経済が少しばかり乱れたところで意に介する問題ではないし、私自身も容喙の意思はない。
今後の選挙などで、自分たちが投票できる候補者などがみな期待しづらい者たちであれば、否みな期待が出来ようと出来まいと、投票したければここまでの原理に倣って「強く軽蔑せず強く期待せず」投票すればよいし、そもそも意欲が沸かなければ、私のように投票しなくてもよい。

大事なことは「あれに投票して後悔した・投票に行かなくて後悔した」というように、己の判断に後悔が生じないことである。
投票を行うも行わないも、権利を行使するも放棄するも、相応の覚悟を持って判断できれば、現代に生きる在家の仏教徒として一番正しい選択であろう。



脚注 (2016年7月8日設置)
*1・・・原文は天台大師の摩訶止観の一節「若深識世法即是佛法(若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり・元は金光明経・原文未見)」であり、これを略した「世法即仏法」の形で広く用いられる。この直後には儒教の五行や五常と、仏教の五戒とを付会し、結論として、世法・外道の教え(世法薬・世間法藥)では一時的な救いしかできないと説く。やはり、後生善処は仏法に依るべきである。

禅宗系の在家信者(70歳以上)がインターネットで、この「世法即仏法」の著しい俗用をしていた。中世の日本にいた禅宗系の僧侶(半臨済・半曹洞?)の教説に倣っているようである。社会での労働が徳を積んだり、執着を断つにふさわしいとする。一理あるかもしれないが、実際にはそんな好青年や労働者など現代社会にいるであろうか?魔訶止観の原文の続きの所説に見る通り、そんな俗事一辺倒で仏道が成るはずはない。俗事一辺倒で徳を積む発想は、共産主義の「唯物教」であり、外道に過ぎる。この方は、天台大師のお言葉であることを隠し、その禅僧を専らに扱っていた。そもそも禅宗系は、戒律に背いて「作務」という農耕や労働を是認している(その作業着を作務衣といいこれも非法不如法で僧侶の衣服でない)。かかる「座禅教」は非仏教の外道に類す。中道の上では、世俗も仏道も完璧には切り離せないが、あの教説は、「正」の道である俗事に、「傍」の教えとして仏法が補助するという、本末転倒に陥っている。

日蓮大聖人が「仏法は体の如し、世間は影の如し。体曲れば影ななめなり(学会御書 992p)」と仰せのように、世法は後の話である。俗人は往々にして「煩悩即菩提」などの不二を表す仏語を俗悪に解釈し、己の三毒を肯定して仏道に背いてゆく。堕於悪道中・堕在泥梨の悪業を生む禽獣である。他の仏教教団でも「シャカイで証明」とか「シャカイがー」といったスタンスで「世法即仏法」の語を悪用する者は、所詮、社会での御利益を仏道に対して望んでいる不純な輩であろう。世法と仏法は通じ合う一面もあるが、完全なイコールではない。而二不二の義を知るべし。また日蓮大聖人は、かかる俗悪禅宗に対して「只だ不二を立てて而二を知らず謂己均仏の大慢を成せり(学会御書 489p)」とも仰せられたのである。禅宗が外道の性質を持っている点も、別の見地から「仏教には経論にはなれたるをば外道と云う(学会御書 152p)」とも仰せであり、これは「不立文字」の教義(およびナンタラ禅師の禅語だとかの語録に偏重している顛倒)を呵責している。禅宗は思い上がりの教義ばかりでまさに「謂己均仏」の増上慢・外道である。

*2・・・※後日別途記事投稿※ 無論、仏教徒には改憲とか護憲の論議自体が無用であるが、少々綴る。まず私は既成事実化している現行の日本国憲法の無理な改正を推進しないが、したい勢力が大勢ならば好きに改憲をすればよい。今の自衛隊の位置づけを正当化する範疇ならば改憲に問題はない(自民党の改正草案の全てを肯定できないため改憲の範囲に更なる議論は必要であろう)。改憲をしたからといってよほどの政権の暴走は民主主義の現代文明下で有り得ないと信じる。「護憲」の語については多義的である。「立憲主義」は都合よく用いられる。護憲とは、現存説や有効論がある大日本帝国憲法への護憲か、現行の日本国憲法への護憲かといえば、大概は後者である上に、専ら「憲法9条 (憲法第九条)」に念頭を置いているところ、偏狭な定義が多いようである。今時の立憲主義は、日本国憲法を以て不磨の大典(貞操観念)とし、なかんずく第九条を金科玉条としている。

現行憲法9条の原義である、自衛隊を含んだ完璧な武力の放棄はどうであろうか?憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とは、空虚な観念論である。例えば、密林に猛獣がいないと過信してターザンのような生活を望むも、無防備・軽装のまま猛毒の蛇や蜂などに攻められかねない危険性がある(無論、回避したり彼らの攻撃性を煽らない行動を取ればよいが実際は困難を極めよう)。また、「"平和を愛する諸国民(観念偶像)"を信頼して自存自衛を決意する(取意)」とは、浄土真宗の他力本願とそっくりである。皮肉にも、「他力本願」の俗用を嫌う浄土真宗の一部僧侶が、阿弥陀如来(法蔵菩薩)の四十八願と日本国憲法が共通している、といった妄言を吐いている。こんなことでは「日本の防衛は他力本願ではいけない(取意)」という昔の閣僚の発言に抗議などできなかろう。現行の日本国憲法の立場も浄土真宗の宗旨も「他力本願」が是であろうし。

広宣流布、仏国とならないうちに、観念的な平和憲法は空理空論である。武力の放棄は最終目的であって「いつか」は「今」ではない。坊主・・・仏教徒であれば、真面目に布教し、広宣流布を遂げてから平和憲法の理想を実現すべきである。平和憲法を全否定しないが、安易な肯定もしない。率先した武力放棄による「急進的平和運動」は実現性がない。時宜に随って変化する世俗の法制度の在り方くらいで一国乃至全世界の平和の実現を願うなど、仏教徒の発想ではない。

本文中の釈尊御在世の故事(釈迦族と毘瑠璃王の話)を再度確認されたい。虐殺的な闘争も不可避であったし、いくら慈悲を以て教導しようとも、毘瑠璃王の瞋恚を制御できなかった。世界中の核軍縮はオバマ大統領の鼓舞でさえも進展が見られず(彼は実行力に欠く)、日本国で仏教の教団が形骸化する中、武力や軍備の放棄をすれば、仏法は元より世法においても日本国を根無し草と成さす。修行者の今生は、断ちがたい煩悩との付き合い方が重要な課題である。国家もまた、しばらく荒れている世界に処する上で、軍備と付き合うべきであろう。娑婆に完璧な清浄は有り得ない。過激な平和主義者は、常楽我浄の四顛倒の幻想を捨てられずにいる。

*3・・・インターネットでは様々な憶測が飛び交う。それらの例を、当記事では取らないでいた。詮索はよくない。本文の冒頭「為政者の思惑」にしても、例えば18・19歳という拡大された新有権者らは、インターネットの影響で右傾化があり(SEALDsとかいう茶番団体は虚勢)、その他は事大主義的で無知のため、けだし自民党(連立与党)に投票する、そう現政権が判断している可能性もあるといえる。しかし、そんな邪推を書くわけにはいかない。冒頭にはもっともらしく「民主主義の観点での主権拡充」か「主に若年層の政治への関心の向上」という点のみを取り上げた。

ここであえて話すと、例えば「陰謀論」はよく聞かれる。公明党と創価学会の歴史的経緯や、自民党の主要な閣僚議員が日本会議・神社本庁に所属しているという情報は客観的事実とし、中にはクリスチャン(キリスト教徒)だとかカトリック(キリスト教の一派)だとかフリーメイソン(ユダヤ系)だとかという単語との関連も挙げられている。また、集団的自衛権(安保法制・蔑称で戦争法案など)・秘密保護法・TPP・慰安婦合意などはアメリカの後ろ盾が囁かれる。その一方で、安倍首相を偏執の軍国主義者・ネオナチとも揶揄している人がいる。安倍首相一人に対してすら、特定集団の陰謀とかアメリカの使い魔とか偏執ネオナチとかと相容れない表現が当てられている。また、民主党(民進党)や共産党や社民党が中国共産党や朝鮮総連の言いなり・手先であるとはよく言われる。マスコミ(テレビ・新聞・雑誌)などは金に釣られてあっちこっちに流動していると罵られる。

みなピンキリがあり、ものによって客観的事実であるとしても、それらは基本的に排除して「中道」を考えてもらいたい。しかし、ある程度は加味して「中道」を考えてもらいたい。曖昧かと思われようが、日々に「中道」を思っていれば、理解できる日は遠くなかろう。政治家は畢竟すべて欺瞞的であり、敷衍すれば物事も全て「空」なるものと思う。しかし虚無主義や厭世思想にも陥らず、「諦らかに」物事を判断すべきである。素直な心こそが仏法の中道である。「非有非無」の判断は最も執着が無く、苦しまないながらに有益な思考である。心における無上の処世術であり、それが後生を度する功徳となるから、龍樹菩薩は中論で「若し俗諦に依らずんば第一義を得ず。第一義を得ずんば則ち涅槃をも得ず」と説かれた。



2016年6月13日月曜日

類聚(7) ~ 「詩歌」篇

*横野要文類聚 第七篇・前節*
和と申す意(こゝろ)、この國に具はれり。(開法身)
和の當體は(者)、代を歷(ふ)るところの天皇にして彼が統める國土なり。(開報身)
和の君・土、共にあるを以て、この國の古き歌をば和歌と號するなり。(開應身)
然るに當代、和に於いて心を失ひ、唯だ形ばかり殘りて和食・和服・和風なんど申すばかりあり。
※えっ、漢詩の説明は・・・



横野要文類聚(よこのようもんるいじゅ)

今回のテーマは「詩歌」である。
ここでは、形式のはっきりとした(=散文ではない)和歌から漢詩までを聚める。
和歌の形式とは、5・7・5の俳句、5・7・5・7・7の短歌、7・5・7・5・7・5・7・5の今様までが含まれる。
漢詩についても、1句を7文字とする詩や、仏教経典に擬した1句5文字の偈の2種がある。
当類聚においては、掲載要文のクオリティを鑑みて日付の降順で掲載する。






おもしろや あらおもしろや おもしろや 面おもしろや 面白き儂…2016/04/07
当記事注: 臨終において法悦を感じながら、自分の相貌が白くなっている状態に気づく。
この状態を涅槃の相とも成仏の相ともいう、仏法による辞世の句、歌。
人間としての一生に満足し、もう「おもしろ」以外には表現ができなくなった状態でもある。
「おもしろい」という一般的な形容詞と「面(おもて)が白い」という字面の意味を前半と後半で徐々に変えてゆく(発音も単に「おもしろや」ではなく「おも・しろや」という区切りを意識する)。

類聚記事の目的を外れた例は、第一篇の終盤など、すでにある。
上の歌が2016年4月7日に浮かび上がったことにより、同日に類聚7の記事の編聚を発願した。

あきらけく ざえすぐれたる ものなれど まれにあだなる しかもありなむ…2016/01/01

風に乗せらる 年の瀬に 悔いは除こる 行く年の 憂ひも消えて 巡るらむ 年の来たれる 大晦日…2015/12/31

人はみな つね無き身にて 死なむとも 成仏ばかり 尊きはなし…2015/10/25

我が日々の 永かるべきは 黒髪が 筵を撫でて 色抜けるまで…2015/10/05 
当記事注: 12月中の2度においては"我が日々は 久しかるべし 黒髪の 筵を撫でて 色抜くるまで"とあるが、意味は同10月5日の日記メモに述べている通りで同様である。


さきたまの うらわのみよを たどるなら ちよやちよなる すめらぎにすぎ…2015/08/19


ゆめつ國 湯水の如く 消ゆる金 過ぎにし方に 夢また知んぬ…2015/06/08

暮(ゆうべ)には 夢(ゆべ)をみるとも 宜(むべ)ならず…2015/06/08


ハゲアリヌイマノワタシニクラブレバ、アナタハモノノカズニアラザリ…2015/04/09


つまごひの きじのすがたは しげけれど ふけにけるとき いづくにかおはす…2015/02/27

ヤンゴトナシヤチエノモノ カロンジテオシハカリケル オソレハバカレハジシラズ クチニナダシソカレガミナ…2015/02/05

浄土の園に咲きたるは 蓮華・優曇華・曼珠沙華 あな曼陀羅華咲きにけり はるばる西のエウトピア…2015/02/02

こーくぉでおーおたーがも~もとせめぇ~ と~おっくま~みえーしあ~だが~たき~ おぉめおぉめの~がしーてなーるもぉのかぁ~ く~びはーねせっしめぇ~たーてまっつれ~…2015/02/02


虚しかる 我が慈しみ 誰が為ぞ…2015/01/25

いたづらに 命は死なん いづちへと…2015/01/22

のぞみしは ながぬばたまの こいしかみ…2015/01/20

どしがたく かいしがたかる うきよにて もちたるゆめは あぶくのごとし…2015/01/20 (同日記事)

みのらずに からゆわかばは またもゆる つよきみさおを かかえのぶらむ…2015/01/16

すめらぎの よもにあまねし おほみいつ かたきしとねに ふせておもひぬ…2015/01/11

1. 神の力を 仰がたる 時こそまさに 神は笑め 尊き御名を 称えれば 無上の才を 授からん 2. アマデウス殉じ 喜ぶは 神の殺めを 受けし故 アマデウスの死を 弔わば 誓いの心 固まりき 3. 不退転なる 信鋼を 身命惜しまぬ 練鋼を 汝鋼道 本懐たれ 汝鋼道 本懐たれ…2014/12/31

ご威光ぞ ここに普く 輝けり (or輝ける)…2014/12/06

高師の名 普く渥美に 轟けり…2014/12/03
当記事注: 「高師の名」が、なぜ「普く渥美に轟」いていたかは、リンク先の記事の話題の当該記述付近の説明の通りであるが、2016年4月29日は「高師(たかし)」に相当する名前が倭名類聚抄に載っていることを知った。訓読みの漢字表記が「高蘆(たかし、高天原"たかまヶはら"のように"あ"の連続を省くか。後に高足)」で、漢字音写は「多加之(たかし)」である。同書では渥美郡に属す。意外と由緒がある名前であった。「高蘆」を冠する神社もある。当該記述の話題は「高師原」だが、「高蘆原・高芦原」と表記を変えると、付近の「芦原」の地名は「高師」から副次的に生じたものと考えてよいように思った。

召喚詠唱「五濁悪世より離れ、寂光の園を築き給うた主の御稜威ぞ、此處に普く輝きぬ!」 "Veni Creator Spiritus!!"…2014/11/30
当記事注: 日本語として5モーラや7モーラを基準に構成されるが、「五濁悪世」という漢語は2モーラ化して読んでみてもよい。ラテン語"Ve-ni Cre-a-tor Spi-ri-tus"は8音節であり、標準的な西洋古典詩のリズムを構成するが、この一節だけでは歌として不足があるかもしれない。意欲的な詩人は、是非とも日本語とラテン語を融合した詩を考案されたい。

辜の無き 愛子を疎み 飢ゑせしむ…2014/10/16

摘むほど 滴り落ちる 油かな…2014/10/09

須臾にして 欠けたる月を こひねがふ…2014/10/08

謗るまじ 譬へメタルに 飽きたとて 汝メタルに 背かば死なむ・・・2014/10/04





一點之禿在頭頂 (一点之禿在头顶)

熟瞻網有數議場、雜談・諍論・罵詈席。不分長短於彼中、在何処須恐思離。…2016/06/04

当記事注: 2016年5月17日の日記メモの擬古文の意味を七字四句の漢詩で詠んだ。一句に七字で四句詠むことは過去に一度もなかった。七字四句という、フルバージョンの漢詩(七言絶句というそう)を一度でも詠んでおきたかった。なお、件の日記メモにもある通り、インターネットの話題であるから、三文字目の「網」とはインターネット(簡体字: 网)を意味している。ところで、上の詩を読んで間もなく、漢詩は韻を踏まねばならないという認識を持った。近代以降はこの傾向があるらしい。上掲の詩も以下からの詩も、韻を踏むことは何ら考えなかったのでショックである。まあ、やりたいようにやろう。「近代」というからには、古い日本・中国の漢詩はさほど韻を踏んでいない。あと、仏教の偈も。また、「平仄」なるものまで気にすると、制約が凄まじい上に、平仄は1000年以上前の韻と明・清などの韻と現代の韻などで差があり、参考にすべき韻書も定かでない(佩文詩韻が推奨されるか?)。平仄にこだわる人以外は差し置いてよい。

勇躍足自到長安、頓天竺羅馬亦近。(勇躍の足、自ずから長安に到る、頓に天竺へ、亦た羅馬も近し)…2016/03/31

一點之禿在頭頂 (上掲の"求道相"とはその"禿"の箇所を指す)…2016/03/25 (上掲の絵を描いた日と同時に考案)

若有未得人 見如是画像 顕理論画像 速到高次理 (若し未だ得ざる人有って是の如き画像・理論を顕せる画像を見るに、速やかに高次の理に到らん)…2016/02/15

PC即是應身故、願無障礙於我道。(PCは即ち是れ應身の故に、願はくは我が道に於いて障礙無からんことを)…2016/02/11

髙德依機人 柔軟説方便 母両舌翻弄 是如魔惱亂…2015/12/22

豈謂妙髪驟燋燃 (豈、妙髪驟かに燋燃すと謂う)…2015/12/XX (推定時期、肉筆、"燋、ショウ"は環境依存文字)

雖昇天界即歓喜 而或人言非可悦 (天界に昇りて即ち歓喜すと雖も、而も或る人"悦ぶ可きに非ず"と言ふ)…2015/11/XX (推定時期、未完成未公開楽曲の印象フレーズ)

世濁悪強盛 著根本無明 於是如夜永 有人見月星 不得遊戯処 久受大苦悩 而識少真理 則入安穏道…2015/10/17

無因無策無禍根 (因無し策無し禍根無し)…2015/08/22 (日記メモ・過去記事に幾度と引用)

前無礙・傍若無人 (前に礙無く、傍らに人無きが若し)…2015/06/07


不爲實於無根草 我亦如是而自戒…2015/06/10 (この二句版自体は2015/12/19)

当記事注: 母親がどうしようもなく「残念な人」であることを示す際に詠んだ詩であるが、それは父親も同じように「残念な人」である。一応、親や先祖には日本に生まれ育ち命を繋いだ功労・恩恵に感謝をするものの、両親への尊敬など誰ができようか?その末裔であり、子たる私もまた「残念な人」であるに違いなく、夫婦も親子も不二の状態であるという東洋の思想から「我亦如是」と続ける。しかし、その東洋の思想の理解はそこに留まらず、愚物の親あってその子であるからこそ、自戒する心を持って努力しようと謳っている。これこそ、仏教徒の姿勢ではないか。他人がクズならば自分もクズである。その自覚があるからこそ、成仏や往生や涅槃など、いわゆる「解脱」という境地を目指す努力を仏教徒は行う。同じクズ=全人類=凡夫でも、自覚のあるクズは一歩進んでいる。



追記: 2017年8月5日
「萌えの典籍」全般に、和歌(数種類)・漢詩が読まれる。
漢詩の押韻などのこだわりは、「萌え話・萌え歌・萌詩"The Moetries"」の記事に表れる。
六首版の萌え和讃では、語調の良さはもちろん、上代日本語ライクな二重母音省略による字余り回避を用いるというこだわりが見られる。



追記: 2017年11月16日
前節の"※"を受け、漢詩の説明を少し書いた(通俗語源説っぽく書いた)。
漢は是れ大人の義なり、梵語には摩訶"mahat"と爲し、又た毘訶"bṛhat"と爲す。
詩は是れ迦尾也"kāvya"と云はば、漢詩を名づけて摩訶迦毘也"Mahākāvya"と爲す。
梵語・天竺・印度偈は婆羅賀摩"Brahma"化して毘訶迦毘也"Bṛhākāvya (類推)"なるべし。

・・・、私は梵語もといサンスクリットの偈(8音節・4句)を2017年10月25日に1つ作った。
仮のページ(http://testing-design.techblog.jp/archives/29133059.html)に公開してある。
Aprameyā sarvadharmāḥ, kimaṅga punaḥ me muniḥ |
lokāvidyāṃ hi rājati, tasmād anuttara nāmaḥ ||
(ストーリの終盤における偈) 「一切は量る可から不るなり・何に況や我が大聖をや・遍く世の無明なるを照らしたまう・是の故に無上なりと名く」

2016年5月22日日曜日

商業主義的アニメ・キャラクターの宗教性

表題に関しては、アニメ・マンガ・ゲーム作品などのコンテンツに関連したグッズの例と、キャラクターの意匠を用いたキャラクター商品の例を以て、宗教との類似性や現代日本人の宗教観について論じたく思う。
詮ずる所、人々がアニメ・マンガ・ゲームほか多くのコンテンツや、ペット・愛人などの生命体にいくら信頼や愛着を持っても、死後を想って(神などへ救済を願うように)非実在キャラクターや実在ペット・愛人へ、その信頼や愛着を傾ける者は無に等しい。
これが、形としての宗教とは最も異なる点であろう。
いずれも、現世での享楽・耽溺の域を過ぎず、それらの事物に神秘的な思いを捧げたりもしないことがほとんどである(ただし死後アニメ世界に生まれたいとか愛人・ペットと一緒に天国行きたいという者はいる)。



※以下から本論に入るが、まず筆者・横野真史(19)は2012年8月からアニメを視聴していない点を留意されたい(リンク先の記事に細かい定義あり)。反面、美少女イラストの方面を好んで描いてもいる

アニメファンとは何であろうか、そもそもファン"Fan"とは、楽しみを意味する"Fun"と文字列が似るものの、それは偶然の結果であり、実際には狂信者を意味する"Fanatic"の頭3文字を取った俗語である。
あらゆるファン"Fans, Fanatics"は、その愛好する対象に、あるいは財産あるいは身命をも惜しまず、愛好耽溺を是としている(俚諺・俗説に曰く"信者と書いて儲けと読む")。
当然、アニメに限らず、芸能、音楽、スポーツ、物体や業界などの分野まで幅広く、このような姿勢のファンは多く、時には本人が普段の生活でしない過激な行動に出て触法行為さえ犯してしまうことは誰しも知るところであろう(過激な鉄道オタクが過去に問題視されてきた)。
こういう場合は、マニア・オタクなどと呼べば、誰もがイメージをしやすい(単純に造詣が深いだけで行動的でない者もマニア・オタクと呼称されるので一様ではない)。

ここでその例を詳細に挙げはしないものの、それらの情報を聞くたびに、人は「怖い、キチガイ、キモオタ」と恐怖や嘲笑を起こす。
また、そのような事象を知れば当事者は「自分は違う、自分はああならない」と同族嫌悪・同志を軽蔑することもあろう。
しかし、大概は程度の差はあれ、自分が普段の生活でしない、冷静に振り返ると「なぜあんなことを」と思えるような消費活動に及んでいることもある。
ファンとしての熱が一時的でも恒常的でも、冷めた時ほど悔悟の念は強いであろう。
しかし、その境界を幾度と移ろうばかりで、大概の者たちは各々の浅い人生観のみを以て、この染み付いた性質を直すことは不可能に近い。



アニメグッズという物体の収集や、それらで自室を飾ることで心が満たされるような現象もまた、宗教と結び付けられない事柄ではない。
2016年1月13日に投稿した記事で、私はこう書いた。
"明恵上人は臨終に際し、病床を仏像と曼荼羅で飾り上げたということは比較的知られる事跡(伝承?)である。さながら自室に美少女フィギュアを飾ってアニメポスターを掲げる人、さながら自室に軍艦や戦闘機の模型を飾って国旗や軍旗を掲げる人のようにも思ってしまう。"
このようにして現世の住まいを浄土の如く荘厳してしまおうという、僧侶をはじめとした大乗仏教の信者は多くいる。
穢土即浄土、娑婆即寂光・・・、物次第では浮世(憂き世)も住みよく変化させられる。
現代のアニメファン・アニメオタクたちもまた、キャラクターのフィギュアなどをラックに並べたり、ポスターを壁にベタベタと貼り付けることで、彼らが無聊を託てる憂き住まいを、理想の二次元空間(2.5次元とも)に変容できるようである。

ただし、私は物を必要以上に増やしてまで、欺瞞的な心の安定を得ようとは思わない。
自室安置のご本尊や最低限の仏具のみで「自室即道場」を実現できる。
私の部屋にご本尊を置くことは畏れ多く、アニメグッズなどは手を出すことすら憚られる。

アニメファンの精神性について、例えば、深夜アニメを中心としたアニメファンは、やはり忙しい日々の中で夜中、TV放送のリアルタイムでの視聴を美徳としている。
やはりTVで素のままに放送される映像に臨めば、臨場感が圧倒的に優れ、まさにユーフォリア・エクスタシーを感じ、さながら天界にでも昇り、神々の如きアニメの登場人物らと相見える、いな、一体化した気分となる。
これこそ彼らアニメファン・アニメオタクの「梵我一如」の体験であろう。
世間での自己を一時であっても離れ、観念空間に溶け込んで真の自己へと昇華する、忘我にして梵我一如ではないか。
この恍惚感を味わいたいがためにネタバレやフライング情報は嫌い、インターネット公式視聴サービス(ニコニコ動画など)や割れサイトを嫌う、正統派意識の高い者も多い。

※正統派意識とかという話をすれば、例えば宗教でも聖書や経典などといった聖典の記述や教祖の教説などの教義解釈について学問が起こり、研究され、論争が続けられた歴史があるように、アニメや漫画やゲーム(ACG, Anime Comic Game)などのファンもまた、作品の設定やストーリーの実相を精査し、インターネットなどで意見交換を行う。二次創作設定を嫌う原理主義者もいる。何にせよ、信者同士で考え方の相違があり、議論に熱が入る点はよく似ている。





続いて、アニメグッズとは異なったいわゆる「キャラクター商品」と、消費者の宗教性を述べる。
まず、キャラクター商品に大別して2種がある旨を示しておきたい。
その2種とは、商品のオリジナルキャラクターがある例と、他者が著作権を有する既存のキャタクターの意匠を利用した商品である。

前者の商品はオリキャラの存在によって特色と親しみある雰囲気を演出する意図があろうが、好みが分かれて受け入れられないこともあり、ある種の賭けである。
中でもケロッグのシリアルのキャラクターは「アイツ消された!」とよく話題にされる。
日本のシリアル製造メーカーの大手にはカルビーと日清シスコがあるが、カルビーのスヌーピーはともかく、日清シスコのシスコーンの何とか坊や(アメリカン狂気)の絵柄は2014年ころに著しくショタ的な顔と体型、フラットデザイン的な色塗りの絵柄に変更された。
そのようなイメージキャラ・マスコットキャラが消えたり、現代風にビジュアルを刷新する現象などは、若い世代ほどピンと来るのではないか。
オリジナルキャラは、中身の製品との関連性を感じさせないものほど賭けとしての性質が強いように思うが、逆にあまりオリジナルキャラの存在を強調しすぎない(製品名からキャラ名が作られてもキャラ名を製品名に冠しているものは抵抗が強いか)ことで、消費者の抵抗感を生まずにいる商品もある。

一方、後者の商品は中身である製品そのものが個性や斬新さに欠ける傾向がある。
後者の商品における既存のキャラクターの意匠の利用にも2種類あり、1つは作品やキャラと本来は関係のない分野でタイアップ・コラボレーションした商品(既存のものと新ブランドのものにまた分かれる)であるか、もう1つは最初から作品やキャラの設定と符合して新発売された商品である(このほか一時的なキャンペーン型の商品や前者の一時的なキャンペーンによる後者の方式もあるがこの限りでない)。



一番軽薄な印象を持つやり方は、「作品やキャラと本来は関係のない商品」である。
例えば、商品の中身自体はチョコレートの塊であるが、有名なキャラクターの意匠を利用する権利を得て、外装や個包装でその意匠をあしらい、飾り付けた商品がある。
そのような例に類する商品に対しては「軽薄な印象を持つやり方」と思うほかない。
製造者あるいは販売者自体が出す安易な策もさることながら、著作権・知的財産権を管理する側もお金をもらえれば利用する権利を与える軽薄さを嗤う。
資本主義だから仕方がないとはいえ、両者とも私に無節操な業界だと思わせてくれる。
私としては、そういった商売に否定や批判をしないで、商売の形として認めたくは思うが、あんまりディズニーやサンリオや日本のTVアニメなどのキャラクターが、同業他社どうしの製品に入り乱れている現状は心地よくない。
本当に、キャラクターの存在などは簡単な金額で売り買いできてしまうのだから、この点は宗教性や精神性にはごく遠く思う。

だがまあ、人々の中には、私の母(脚注で例を挙げる)を始めとして、どんな理由であれ何の由縁もないキャラクター商品に手を伸ばしたがる場合もある。
他の似た製品と比べて低価格のものもあろうが、小売店に2012年から入店しないでいる私が経験的に言うところではない。
ここまでの私の所説で実感が沸きづらい人は、菓子売り場の実地調査でよく観察されたい。
どんな理由であれ、ああいう人々ほど現代的な現実主義を持っているのに、実際は理性や知性に反した空想家でもあり、由緒なきものに神秘性を感じるような不思議な人々である。

そのような現代的現実主義とは、現代日本という土地に生きていて自然と具わる思想であって確然とした論理性に欠けるわけだから、クリスマスに遊びと、正月に初詣を行う者は多い。
これは単に、変哲のない生き方をしている多くの日本人の特徴であり、社会面も宗教面も、凡庸な日本人的に思想が国土通念上の中途半端なままに自然と得てきたものに過ぎない。
思想において志操堅固な者や、そうあろうとする者すらも、現代日本にほとんど居りはしない。





即物的思考に変わって宗教の教義や教団のしがらみを厭う現代の日本人も、詮ずる所は「色違いの信者」である。
現代の日本人は本来の尊ぶべき神や信ずべき仏を忘れ、神仏の区別もろとも捨て去り、自ら新たなる尊体を創造するに至ったのである。
心に「日本人」としての矜持や枠が薄れた末に、たまたまキャラクターコンテンツへ移入した程度のことであり、むしろキャラクターグッズなどの物体を飽きずに収集し続け、その物欲の需要がますます生産の供給を増長させるという循環で、日本人の芸術性から産業までを変質させるに至った。

好きな作品やキャラクターのためには、蓄財をも惜しまずに捧げ続ける(布施・供養)。
スキスキ!という気持ちに心が躍って理性の迷いが無いパターンや、中学生時代の私のように思い煩って迷うパターンもあれ、多くはその本人が本来惜しむであろう出費を厭わなくなる。
何という神秘性であろうか、作品に興味が薄いわりに菓子や日用品などキャラ商品へ手を伸ばしたがる私の母をも思えば、このような産業は画期的ではないか。
財産ばかりか、イベント参加であるとか、様々な場所に顔を出すその勇み足も、アニメ系以外の場面では決してなしえない。

迷い続けた中学時代を思うと、私は理性からようやく信仰に入ることはあっても、心が躍る気持ちで信仰を行う精神性には欠いていようことを改めて実感する。
純心というか、道心ならぬ童心というか、そうやって徹底的な出費でもって「お布施(ご供養)」ができる人々へ、私は、ある意味で尊敬を懐く。
今でこそ、去年末から略式ながら勤行を上げ続け、信仰は半ば強まっているが、つい2015年のいつまでかは、学者のような部外者の顔で宗教を学んでいた。
もちろん2014年6月に仏教を学び始めた時から、本格的な信仰に入りたい思いを兼ねていた。





アニメファンなどをそのまま宗教の信者と同様の「愚かな人種」と短絡するつもりはない。
以下から内容が専門的になり、口調や語彙が険悪に見えてくるが、主に日蓮某宗スタイルである。

例えば、とある小乗仏教の信者がネットで「私は二次元に萌えませ~ん、ゴータマ仏陀(釈尊)は実在した方ですから三次元萌え~、大乗仏教の信者は観音とか弥勒みたいな架空の菩薩好きの空想家だから、二次元好きと同じで~す」などと強引で偏屈な持論を垂れていたが、このように浅薄な総括をする論理を説くつもりはないことを留意されたい。
・・・これについて詳しく弁駁するのは恥ずかしいが、「架空」とされる菩薩が好きという大乗仏教信者は、既成仏教の法要に参列したり遍路などを巡礼するような在家の高齢者が多く、典型的なアニメファンだとか二次元好きはほぼいないし、等号で結び付けられるはずもない。
それは形式の話だから、精神性の話に移しても、私は典型的なアニメファンだとかとは理念を異にして二次元の価値を認めている(アニメは2012年8月から見ないと過去記事に詳述)。
それは一種の知性的な耽美主義であるから、自慰行為などの享楽的な行為は元々行わない傾向があるばかりか、昨今はますます自慰行為を避けることは2015年12月20日から2016年4月10日まで一度もオナニーによる射精をしなかったことに看取されよう。

少々くだらなく思われそうだが、このように私自身は極端な反例であるとしても、むしろそれを知らない者たちが惑乱して斯様な邪説を得意げに漏らすわけだから、少しは視野を広げられたく思う。
この発言者が、説明する事象の理解を促す上で便宜上こう説いた、と肯定的に理解をしても、そんな二次・三次の好き嫌いをいちいち披歴して卑俗に譬えるなど、仏教を心得ない状態は明白で、無道心にして世俗の倫理観すら弁えない言説である(二次が好きならどうとか三次が好きならどうとかいう二分法しかり、その執着しかりと外道を過ぎず)。
※ついでに私も少し蕩けたことを言えば、昨今の二次元はスケベに目を狭める傾向があって目つきが悪いので萌えづらい二次元が多い状態は事実である。

現代の小乗仏教もとい、日本で上座部仏教・テーラワーダを学ぶ人々(教団に所属しない場合が多い)は、特に日本で生まれ育っている場合、潤沢な既成の大乗仏教教団への反骨で西洋の合理思想・現実主義に毒された俗悪かつ、信仰の精神性を自ら殺した佞人が多い(ここまでは筆者も似たようなものかもしれない)。
それでいて知性を見せながら知性は薄く、在家のまま解脱を願う信念もない。
だから大概の者は、パーリ語など原典にこだわりながらパーリ語もサンスクリット語も覚えず、漢訳経典を「誤訳・改変まみれ」と嫌いながら漢文の知識に欠け、パーリ語で伝わる小乗経典のみが釈尊の真説であると信じ、N博士という東大名誉教授だった人物(故人)による現代語訳の経典を絶賛して聖典とし、日本語すら古文や現代文の小難しい文法を知らないことも多い。

酷い者は「般若心経は観自在菩薩がサーリプッタ様(舎利弗尊者)を『舎利子』と子ども扱いで呼んでいてブッダ(釈尊)の弟子を軽視している!」などと噴飯ものの低劣な難癖を付けている。
これは過去に私が書いたよう、「プッタ(梵語でプトラ)」自体が人物名の語末に付くと「○○の息子(サーリプッタならばサーリの息子)」という意味で、アメリカなどの「ソン(son)」という父称姓に似た接尾辞となり、単に「子」と「弗」は漢訳か音写かという違いでしかないが、これは舎利弗尊者に限らずウッダカ・ラーマプッタなど類例が多くある。
そんなパーリ語や漢語などのすぐ気付ける知識すら気付かないか、そもそも語義を学びもしていないほど浅学であり、語学も疎漏である。

これはその本人に限らず、多くの日本テーラワーダ信者が程度の差ばかりあって同類である。
先述のように、文献学的に漢訳経典や大乗経典を嫌い、思弁哲学的に小乗仏教を求める割には、知性に乏しく感情に流されて得羅漢・解脱・涅槃など遠かろう。
法華や念仏など、宗旨ごとの唯一最勝の教義を貶めつつ、「ダンマパダは唯一正しいお経だ!」と叫ぶところ、その法華や念仏の思想とどう異なるか聞きたいが、低劣の極みはスッタニパータの所説を取り上げながらダンマパダの所説と誤解してダンマパダを称賛する信者がいる点である。
それだったらば「パーリ語経典・南伝仏教のお経は全てブッダの言葉で正しい」と宣揚すればよい。
日蓮大聖人の御言葉を借りれば、「(前略) 弁へざる人師なんどが仏教を知りがほ」にして「経文をわすれて論と云ひ釈をわすれて論と云ふ」ようなものである。

何よりも、彼らテーラワーダ信者は「自灯明・法灯明」とよく言うが、彼らの「釈尊真説=パーリ語経典など=正しい教え」という主張とは、小乗における釈尊への盲信であり、ダブルスタンダード(大聖人云・自語相違)となる。
※そもそも「自灯明・法灯明(もとい自洲・法洲、自依・法依)」とは、四念処のことであると釈尊は仰せである。四念処とは、今の自分の身や心について如実知見し、八正道に通じて法に依り自己反省することである。自分の心の三毒(正論を言いたい・他人を謗りたい・その感情に流される=貪瞋痴)を棚に上げてどうして議論や大乗誹謗をしようとするか?(大乗は四念処・八正道を成就した菩薩が議論や化他行をするのであって四念処の前提を心得ている)
事実、経典を読まず心得ずに尊大な主張をする信者が、うたた多くいる惨状は多く先述した。
彼らの嫌う創価学会などの宗教と、どう信仰や精神性が異なるか彼らに問いたいが、哲学的見地で一番正しいことは「どの信仰を持ってどの教団に所属するか」よりも、「どういう思考を基にその信仰を選ぶか」といった己の選択の正当性でなかろうか。
私は法華最勝を信じつつ、まだ諸経・諸教に触れている(法華においては思惟・理解よりも信心による一念信解の精神が大事であることは言うまでもない、その信心を曲げずに保持できる者はなお尊い)。
私は他人の短所を論うのではない、諸々の学者の蒙を啓かんと憐れむのみである。

諸々の日本テーラワーダ信者の中に、一時は既成仏教教団にとらわれた信仰をしていて、それで世間的な被害に遭ったからとして強く恨み、小乗仏教に傾斜して大乗非仏説論を唱えだす軽佻浮薄極まりない人間もいる。
要するに「本質(人間的な内面)」が変わらず、ただ執着する対象などの表面的な性質を反転させた程度に過ぎないし、そんなままでは解脱など到底できない。
現代的合理思想に毒されても煮え切らず、賢げにして愚昧なる者ども(悪道輪廻)よりも、創価学会などで純粋な信心を貫いている一部の会員の方がよほど尊いと思う。



すでに御存知であろうが、大阪の真言宗寺院に所属するとある僧侶は、南伝仏教圏(小乗・テーラワーダが盛んな東南アジアなど)に留学してパーリ語はもちろん、サンスクリット語、漢文、英語さえも学んできながら、テーラワーダの比丘には転身せず、日本の既成仏教教団の僧職にある広学多聞の持戒僧である(HPの書籍リンクがAmazonアソシエイト広告になっている点は心残り)。
彼はパーリ、サンスクリット、漢訳の様々な経典や律などを独自で翻訳してHPに彼の主張と共に掲載しており、中国の土地柄を蔑視しながらも漢訳経典を軽視せず、中国の先師らの論・釈にも通達してそれらも訓読・現代語訳を行う。
古今東西の思想・哲学(中国・インド・西洋・ギリシャなど)にも造詣が深い。
彼のように博学でなくとも、彼ほどの智者(日本復古仏教教祖N博士など)は小乗・大乗の差別を理性的に減滅して尊重できているし、私としても大小・内外の典籍は広く学ぼうと志向する。
繰り返すが、既成仏教教団の妄信・狂信者(ファナティック=ファン)に対し、既成仏教教団を金満・貪欲・俗悪な体質と見て過度に嫌って教義までも遠ざける佞人は表裏一体の範疇である。

彼の真言宗S派の僧侶・沙門K氏(過去に"婆塞=在家?"を名乗る)はどんな理由から真言宗に僧籍を置き続けるかは不明であるが、私は無宗教の両親のもとに生まれ、幸いにも中1(2009年)の4月に緊急の葬儀のために向かった父の実家がある鴨川市祖母らが仏壇の前で唱えていた南無妙法蓮華経のお題目を聞いて知り(葬儀は真言宗寺院だったが)、様々な思想の遍歴もあれ、先述のように2014年6月から仏法への関心を強く持って主に日蓮大聖人の法門を学び始めた。
仮初めにも「広学多聞」を見習いつつ、本心は帰一(一乗に帰依)である。
心の故郷は大聖人の仏法に他ならない、そう信心を起こしていると自負する。
だから、真言宗や真言密教などを「真言亡国」の悪法とまで言い切れずとも、胡散臭い印象は拭えずいるが、かの真言宗僧侶も何らかの理由や意志があってのことと拝察し、尊重したい。

結びとなるが、既成仏教教団の信徒も、新興宗教教団の信者も、それらの教団を嫌う独学者も、アニメなど商業主義下の消費者も、みな今の信奉や理念はそのままでよいが、せめて私や諸々の智者のような広い見識と尊重の思想を知っておいてもらいたい。
その上でますます自身の信奉や理念を堅固にできるならば、私はその人を尊敬すらできる。
正しい知見と精神性からそれを行うからである。
少し相対的に優れた事柄を知れば、それで安易に傾いてしまって人々の今がある。

また、宗教とは、形ある教団と体系的な教義の存在のみならず、多くの人間が心に抱えている精神をも指す普遍的な概念であり、人間の行為・行動などの根源ともなっている(もはやこの領域は"Religion"の訳語である「宗教」という語句には足らず、不適切であるとも思う)。
むしろ芸能や音楽や芸術やスポーツなどという趣味や娯楽こそが、宗教という根幹より生じた枝葉の結果である旨は、先の「音楽と宗教の概論」という記事を併せて読み、理解を深めてほしい。





起草日: 20160421

末文にあるよう、当記事は「音楽と宗教の概論」という記事と共通テーマであり、起草日も近い。
それ以前の過去記事にも、何か世間の事柄と宗教性を論じたテーマがある。
以下では、とある社会的・政治的思想(イデオロギー)と、宗教の相似性を縷々語っている。
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/06/blog-post_21.html

以下の論文(1.4項)では、商業主義的な芸能などの世俗にとらわれた現代人が発する即物的利益信仰と即物的リスペクト意識について1.4項に「※」を付けて書いてある。
芸能人・音楽家やグループとかの熱心なファンも、ほとんど教団信者に変わらないことは公開収録バラエティ番組やライブ会場の観客席だとかに見え、芸能人などの顔を出した商品もキャラ商品と似たようなものである。
そういった既成教団で熱心に布施・供養を行う信者・カルト教団のカモと同種である現代人(拝金主義の家畜)の商業主義的執着や幸福の基準が、本当に人間としての幸福たりえるものか、胸に手を当てて今一度考え直してもらいたく思う。
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/12/shikokubun.html#nn4

書ききれなかった話を要旨で略記→「アニメ・マンガ・(ビデオ)ゲーム等のキャラクターコンテンツの宗教性に準ずる例、その類例とはペットやトレーディングカードゲーム(TCG)がある。犬はまだしも、猫以下多くのペットへの愛着、ペットを通じた同志との交流(動物愛護運動)など様々な点を見るに、宗教の教団の信者に似る。御犬様ペット様の糞の始末(ケージの掃除など)に責任を持つ、という仁義が第一の理念らしい。トレーディングカードゲームも様々な点が似る。同志との交流というと、トレカにせよ多くのビデオゲームにせよ、多人数でプレイするものだが、悪しき遊戯に蕩けて雑談の因を生ずること豈に徒人(廃人)の謗りを免れんや、交友なる美辞はこの地に落ちず」



少し雑になるが引用 (小類聚 1)

アニメはどんな理論で「手の届かないモノ」と成り得るか。アニメとはテレビあらば無料で見られる、そんな体裁であるが、その次の到達点が「アニメグッズ」の購入である。どうあっても商業主義だから当然のことだ。そして、アニメのファンならそれを持つのもまた当然のことである。しかし、私がどうしてグッズの購入などできようか。これ故に、アニメを見る時間は無駄なのである。モノの恵みにありつけぬ私が見ても得られる愉悦はない。グッズの所持数がファン内での優劣さえ隔て、ランクが決まるならば尚のこと悦楽はない。ファンの立場にある以上、グッズ未所持では引け目を感じるのが人情だろう。アニメ業界でいう「作品愛」とは、精神に懐く愛情だとか以上に、いくら「グッズなる物体」を所持しているかで決まる「即物性」が優位となる。…2014/12/10

当の行政は軽佻浮薄にも、キャラクター戦略ばかり2000年代後半から進めている(ヌゥとかうなことか)。埼玉県内のマスコットキャラクターは、コバトンとアッピーだけでよい、2009年以降ゆるキャラ・ご当地キャラが流行りだすあたりからのジャスティス(市内ネタならレッズ・アルディージャのキャラだけでよい)。…2015/8/19 (2015年6月10日記事の追記欄)



色々と脚注 (小類聚 2)

ここでは本文中でもカッコで示したよう、母親のキャラ商品購入例を挙げる。

2・3月ころの日記メモで、某メスネズミ仕様の英和辞典か和英辞典を母親がにわかに購入していたことを記録したはずだが、文章が見当たらない。
母親は既にある辞書に満足しなかったり、随分とPCやタブレット端末(Kindle, iPad miniなど)に加え、2016年1月26日購入のiPhoneなど、電子端末を蓄えていながら今更活字の新しい辞書を、それもキャラ仕様のものを買ったわけだから、やはりキャラクターの存在による神秘性を感じずにはいられない。
当然、この母親はその某ネズミ系アニメにも詳しくないし、ファン向けの本だとかも所有していないが、安易なコラボレーションの辞書を買うのであるから笑ってしまう。

ほか、2015年10~12月のネット通販大量買い期間では、カートゥーン系のヒヨコキャラが描かれた"MADE IN CHINA"の袋ティッシュを異常な量で買ったのに、2016年未明にはまだ8割ほど残しながら別の日本製・紙箱ティッシュを買いだめしていた。
人の偶発的な備蓄(母が買い与えたシリアルが私の部屋に溜まる)には難癖を付ける割に、母自身は無駄な買いだめをし続ける様子は、当のネット通販期間に多く、Amazon等でのネット通販が止んでくる12月下旬も、イオンネットスーパーで大量の粉末洗剤とシャンプー詰め替えを買うこともあったが、欧米ヒヨコキャラ中国製ティッシュに関しては、単に中国製だとかを知らずに買って後悔したパターンではなかろうか。
母は、安易なキャラ商品などが欺瞞の温床である蓋然性を知らない。

元々商品の見る目のなさは、今更ほかの例を挙げるまでもないが、商品を検分さえしない無神経は一層の問題性があり、一例としては、私向けにと災害用のつもりの懐中電灯(過去の記述は見当たらず)を買った際、調べもしないで「レバーで手動発電」と思い込んでいたが、見るからに安物がそんな作りなはずなかろう、実際は電池の初期装備すらない電池式の安物である。
以下から、もう少し母とキャラ商品に関する各記録を集めて載せる。



ちなみに、母特有・キャラ商品選択癖はここで、ドラえもん映画仕様として現れた。イオンネットショップ>「ドラえもんの恵方巻」の公式ページを確認すると、「予約特典」の文字が浮かぶ。付属のカードホルダーなるものはその特典とのことであった。つまり、母はこれを予約購入したこととなる。 (中略、実物の画像付き) ところで、キャラクタータイアップ商品のこれは上出来の部類に思う。外装はまあ、本体も恵方巻きの上にドラえもんの鈴を象った卵焼きが載る。巻かれたものの中には別の卵焼きに加え、ドラ焼き生地まで巻かれる。よくある無節操キャラ意匠利用の商品よりも手が込んでいる点を評価しよう。…2016/02/02

ところで、裏面の用件だが、2月3日の節分と2月14日のバレンタインデーにおける食品分配予定が書かれる。後者は、ワケのわからないアニメキャラ菓子などが買われていることを既に確認している。母も弟も見ないか、グッズなど買うことの無いアニメのキャラクター食品だけ買う性癖は何とかならないものか。…2016/01/31

(2015年12月26日の) ピザーラの宅配に関して翌日気付いたことは、妖怪ウォッチというアニメ仕様の梱包になっていたことである。翌々日においては、「ジバにゃん & コマさんマグカップ」なるものがキッチン棚にあるのを目にした。母・弟とも妖怪ウォッチを視聴したことはほぼ無く、グッズも皆無であるが、なぜか過去に食品でいわゆるキャラクター商法、妖怪ウォッチのコラボレーション・タイアップ商品を好んで購入することがあった。今回にいたってはグッズ的な物が付き、わざわざグラタン1個のためにピザーラを呼びつけたのは、マグカップのオマケをせしめようとするためか。…2015/12/26

2015年7月29日投稿の本家記事ブログの8月4日追記
(7月28日の母・弟出かけ先について)"Disney On Ice 2015"鑑賞は「アナ雪」効果なのだろうか?母親は2014年からどうも「アナ雪」関連のキャラクター商品を、食品系から洗剤、化粧品の方まで買う傾向があり、甚だ疑問であった。本人はその映画を映画館で鑑賞したことがあったのだろうか。そういうことに足が遠い印象の母だが、かねがね推測されたことは、2014年3月の祖母・叔母2人を豊橋に招いた辺りで市内の案内をしていたが、もしかしたらその中で「日本最大級のシネコン」にも連れて行って、そこで鑑賞した可能性もある。「アナ雪」をその映画館で唐突なスケジュールで鑑賞できるのかは不明だが、これ以外に思い当たる節は無い。

2016年5月13日金曜日

音楽と宗教の概論

表題に関しては、二つ乃至三つのテーマを包含する。
「真の音楽」を求め、現代における音楽ジャンル帰属意識の宗教性と、音楽の宗教的な歴史に関して論じたい。



真の音楽とは何か。
私が作った楽曲の中にはどのジャンルとも定めがたい楽曲がある
何らかの既成のジャンルや特有の作品などに擬した楽曲だが、特定のジャンルと言い切れない。
私は、歌を混ぜない音楽を作る傾向があるから、単に楽器オンリーの楽曲を包括する「インスト(インストゥルメンタル)」と呼称できなくもないが、あまりに包括的であるから独自色に欠く。
だがまあ、音楽に歌声だとか肉声を使いたくない主義のもとにこの「インスト」という形にこだわる場合、それは何らかの派閥を形成している様相とも見られるから、一個の特定のジャンルとして捉えられなくはない。
「ジャンル」とは「宗教」であり「セクト」であり、個々の理念もとい信念に基づくからである。

個々人の音楽観には、個々人の宗教観があろう。
その中でもヘヴィメタル系は派閥(スクール・学派)主義・セクト主義が強い
メタル自体が異ジャンルを蔑視・軽視する傾向もあり、また異ジャンル(テクノとかクラシックとか)の良いところを摂取することもあるから、多様にメタル内のジャンルが形成される。
そして互いに「俺たちが正統派で真のメタルだ!(お前たちはポーザーだ!)」、「俺たちが新しいメタルの革命家だ!(お前たちは古い・ダサイ!)」と誇っている。
特にこのセクト主義が強いと、色々思い煩うことも多いので疲れやすかろう。

各々の掲げる「メタル」という神霊を畏れ、またその神霊に背く音楽活動(異ジャンルへの気移りなど)をしてしまえば、罪業の意識か自己の理念への違背を愧じる。
各々の掲げる純粋なメタルに対する「穢れ」を混ぜてはならないという、貞操観念、衛生観念、潔癖の思想・・・。
正しく、メタラー諸氏の己心に具わる「メタル」という神霊を潜在的に奉じて畏れるメタラーとは、八百万・八万四千(これは具体的な数字ではなく単に量の多さを示す宗教用語)のメタル神霊の申し子たちであった。
この私も、己が「メタル神(デウス・メタルム "Deus Metallum")」を2014・15年にネット上で開陳したが、これは世界初のことであるから、私はメタル神の預言者を自負する。

メタルとは、異ジャンル蔑視・排除という国家神道のようであり、異ジャンル摂取という伝統的神道(列島各地の神々や異国の神や仏教を習合した)のようであり、メタル下のジャンル分裂・分派という仏教各派(いわゆる十三宗など)のようでもある。
日本の宗教性とよく似ているものと感じたが、肝心のメタラー諸氏は一人として明文化しない。



それで、冒頭の話題に戻すが、音楽に歌(歌声・歌詞・歌唱)が必要なものか、考え直す必要性を覚える。
音楽とは、そもそも宗教に発祥があるものではないか。
各地の祭祀(儀式・儀礼)や布教において神を讃える詩、神の教えを伝える詩などは多く歌われていた(神以外には先祖などの高尚な精霊・霊魂か、大自然や万物への崇拝)。
「歌」が宗教の口伝であり、文字のある文明では聖典・経典の石碑などが残る。
原始的な宗教からすでに言葉をリズムに乗せて印象付け、覚えやすくして各地に広めたり後世に残していったわけであるが、そのうえで楽器も当然誕生した(それ以前も)と見る。

現代でもアフリカや南米やアジアの部族・少数民族の楽器には、多くの名残を窺える。
簡単な打楽器や管楽器(太鼓・笛)が太古から各地にあり、後には弦楽器が2000年以上前から中国やインドにあったのではないか、と仏教の典籍・経文から披き見る。
仏典には、漢語であれパーリ語であれサンスクリット語であれ、弦楽器(琵琶など)・打楽器(鼓"つづみ"など)に関する語句が多く見られる(中東・メソポタミアにはもっと古くからあろう)。
西洋一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)においては、ヘブライ語などの歌の石碑が残り、キリスト教はミサの習慣を通じて楽器が極度に進化し、イスラム教はアカペラ重視(ナシード)と、個性的に枝分かれした。

私は断定を避ける表現をあえて連続させるが、要は知識自慢の一種である。
Wikipediaからかじった知識は書いていない。
ただし、それだけでは公開する記事として不適切に思い、一応は調査する必要があるから今にWikipediaなどを確認する。
例えば日本語版Wikipedia「弦楽器」には歴史だとかの項目がない反面、英語版Wikipedia "String instrument"は1番目の項目が"History"となっており、著しい違いを見る。
即物的な現代の日本人にはやはり、楽器という「物体・道具」に、因果だとか因縁だとかの歴史的経緯や宗教性を求めないばかりか、「痛い・イモい・古臭い・電波」という印象さえ持っているから設ける気にはならないのであろうか。
この「弦楽器」日・英の両記事のみ例に取ってそう結論すべきではないものの、私は他のあらゆる事柄も大同小異であると見ている。

件の「弦楽器」記事は、2003年9月20日の版からすでに「地域ごとの弦楽器とその大まかな歴史」という項目があり、当時は楽器名すら設けられておらず、これは2016年現在も楽器名は羅列されて項目名は残っているが、10年以上経つ今なお「大まかな歴史」なる情報は書かれていない。
ほか、日本語版Wikipedia「琴」においては、先の「2000年以上前から中国やインドに弦楽器があったのではないか・中東・メソポタミアあたりも」という仮説を上回る、興味深い考古学的な記述がみられた(「縄文琴」の節など)。
Wikipedia以外の情報に目を向けると、やはり特定の文明には紀元前2000年、などとして楽器の起源を推定する記述も見られるが、あくまでも宗教などを切り離した考古学の観点に留まる。
打楽器・管楽器など、楽器全般に関しては英語版"Prehistoric music"などを参照されたい(20000年前とか43000年前とかと推定される出土品などが例示されている)。



それはそうと、このように音楽は、宗教の祭祀の副産物であるように見える。
しかし、現代の革新的で画期的な音楽文化は何物であろうか。
これは「音楽」の名でありながら別物の概念である、と言える。
例えば、十七条憲法の「憲法」と、西洋の"Constitution"の訳語として既存語句を借りた「憲法」の相違点や、仏教・神道などの用語が日本でのキリスト教などに導入されたよう、微妙なニュアンスのようで著しい差異があると私は見ている。

人々の生活の豊かさは、西洋の産業革命、また日本をはじめとする世界中の工業化などに見られるように、合理性より急激な成長を見込んだ進歩発展思想の影響があるが、やはりそれは西洋的な思想である。
音楽にしても、西洋は、中世以後に飛躍的な発展があったが、ここに宗教との乖離を見る。
宗教から副次的に漸次進歩するという「自然性」よりも、独自の急進的な成長こそを是とする結果、音楽は西洋で著しく進歩し、それは明治以後から現代までも日本に多大な影響を与え続け、日本はことにガラパゴス性から日本ならではの個性が育まれた。
戦前より七五調の軍歌、演歌、現代では様々な歌謡曲・ポップス(J-pop)があり、東アジアや東南アジアの音楽シーン(K-pop, C-pop, その他)に多大なる影響を与えた。
上述の「メタル」であっても、日本では「メロスピ」なるジャンルの提唱と呼称の流布を始めとして、V系だとか同人系のガラパゴス的メタルが世界のマニアを魅了する。

また話を脱線させたようだが、これも私の衒学趣味や記録活動の一環として看過してほしい。
このように楽器というものは、西洋の発展的な思想において魔改造を経てきた。
その思想の影響を強く受けた日本も同調したから、任天堂などのゲーム音楽(いわゆるFC音源など)、ヤマハ・ローランドといったシンセサイザー及び電子音楽・DTM(DAW)のメーカーもこれに貢献してきて世界中にそれらは愛されている。



こう見ると、音楽および音楽性ある文化的行為は、歴史的な経緯より3つに大別されよう。
1. 祭祀や布教や王族奉仕のため、基本的な歌・声にオマケとしての楽器もある音楽(原始宗教・古代文明、昔の諸宗教、現代では鈴・木魚などを用いて読経する日本仏教や楽器嫌いのイスラム教)
2. 西洋で次第に発展した革命的な音楽(芸術革命・ルネサンスとかいう?)
3. どこまでも楽器にこだわるか楽器に依存しない、現代の自由で多様なスタイルの音楽

この3種があり、そのうち、本来的な形式で根本的な発祥を踏襲している音楽は"1"であろう。
故に、冒頭に提起した主題の結論を私が言うならば、真の音楽は"1"であるといえる。
※世界的に変なラップ系(過去記事: あんなもの)の画一化が進んでいる現代の音楽は、1の真の音楽の形式・楽曲の構成には似る。だが、それのみが似て、歌詞は浮ついたラブソングならば宗教性薄く、1の真の音楽に遠い。いな、婬楽(いんぎょう)を以て宗(むね)とする現代の時勢にあっては、ラブソングも賛美歌たり得よう。ラブソングでなければ吟遊詩人とか琵琶法師のようなものか。

私は"2"のような西洋の古典主義の流れがある楽器演奏者を嫌い、"3"の自由なスタイルの恩恵を享受して楽器を演奏できずとも、DTM・打ち込みによって作曲を楽しんでいる。
西洋の発展的な思想はあまり好まないが、これがあることで現代は音楽の極北に達して絶対的中流層(国家を問わずインターネット利用のできる環境の層)まではその音楽を聴き知っている。
当然、昔から人々が発展思想を持たなければ、それはそれで"1"の如き「自然性」の音楽だけで足りたであろう、人間の欲求満足・幸福は、当人の生きる時代や住む環境(国家など)でどうにでも変わるような「無我・無常」の、相対的概念でしかない。
だから、偶発的な「今」のあり方という現代に、喜びや悲しみを持ったところで意味はない。
むしろ私は往古を偲んでいる。

最近は、ある種のネオクラ・ネオクラシシズム=新古典主義ということで、日本の和歌の様式と古語を用いた現代的な音楽を志向している(仏教の偈などでも思案中)。
その一例が、YouTubeに日本時間2015年12月31日17時に投稿した「大晦日の歌」である。
未だに、誰も古語を用いた楽曲を作っていない。
インターネットを通じて古文献などを学び、DTMで多彩なジャンルの楽曲が作れる。
現代なればこそ、文明の利器を用いた復古主義は蓋然的に起こるはずだが、この現状であるから、私が先陣を切って開拓せねばならない。
とはいえ、気軽に提唱する程度の感覚であるから、ほんの濫觴となるのみに終えるか。

私のような10代・20代の若者こそがこれを志向すべきであろう。
中高年などは「懐メロ・演歌」などと中途半端な懐古に耽溺するのみであるから、復古主義はその旧態依然とした愚物への反動として第三者たる若き志士が成し遂げるものである。
素晴らしき現代性を受け入れ、優美なる往古を知り得た若者らは進んで復古主義に走るが、中途半端な中高年の大衆は、自分の生まれ育った程度の浅い過去にのみ執着する愚物である。
ここまで言うと、国家神道を勃興させた明治維新の革命家の異常性にも似ていようが、私はそれくらいの強い気持ちでこれを提唱する。
故に強い気持ちがあらば、たとえその人の様式が、俗悪なジャンルの音楽などとなったとしても、私は尊重したい。

日本Wikipediaで現代音楽とかそれ関連の記事をいくら見ても、あれは人名を書き連ねる「人物らの話題」の域を出ていないため、「音楽の話題」とは無関係である。
私の記事は具体的だが、日本Wikipediaなどは「人物ら」の話題の空虚な記事ばかりであるから、音楽として学ぶべきポイントは一つも看取し得ない。
音楽と人物はもう少し切り離そうではないか、人物の話題には興味がないし、その夥しき人物らを知らねば、飲み込める記述でないから、空虚というほかない。



起草日: 20160420

近頃、何らかのテーマをもとに最初から記事を書くという作業をしないでいたが、今回の記事は話題を個人的に提起して起草に至り、最初の3時間ほどで4,000文字を超すに至った。
私の機運が高まれば、俄かな経緯であっても十分に満足できる情報と筆致でもって綴ることができるようであると、再認識するに至って僥倖である。
何か、今後も心に思う話題があれば、進んで記事にして情報の発信(思想の開陳)に繋がるよう、発想を持てると好ましい。



追記: 2018年1月

ブログ筆者・横野真史は、2017年にサンスクリット語の偈(詩・韻文・讃歌)を作った。
「宗教文学(?)」といえる、「萌えの典籍」中に盛り込んである。
和讃・漢詩といった、日本語・中国語の韻文(音楽的に歌えるもの)も数多くある。

それについて、①唱えた・②ロック自作曲で歌った音声があり、動画として投稿した。
古代宗教や、その伝播といった、原風景らしきものを思い浮かべられるとよい。
①唱えた http://www.youtube.com/watch?v=EIb2CfiUCPM
②歌った http://www.youtube.com/watch?v=-NhafvQ8x10



ただし、この音楽活動は、「音楽および音楽性ある文化的行為は、歴史的な経緯より3つに大別されよう」として古いものの順に挙げる行為を支持するものでない。
起源や推定可能な最古の形式に、今知られる音楽の歴史の一類型を当てはめることは困難であることを私は知っている。
当記事ではあえて宗教の賛美をしたくて"1"という一類型に関する強調をしていた。
布教の行為に「音楽性ある文化的行為」が見られることは確かである。
しかし、それが音楽の起源よりは、発展の一部に相関性が高いものと考えよう。
宗教的な音楽は、それ自体も必要性からの独特な適正化がありえるし、アフリカの部族なども彼らの中での独特な適正化があったのではないか?
何らかの様式を、起源や推定可能な最古の形式とみなすことはできない。
あくまでも「古代宗教や、その伝播といった、原風景」の表現方法に当たる。
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2016年4月24日日曜日

日本(倭)による「三韓征伐」とされる事績に関する調査

古事記・日本書紀に関しては、ネット上で粗略な説明や信憑性の薄い情報などが乱れている。
本日2016年4月24日は、前日4月23日に読んだ明治期の論文の記述(高麗・百済・新羅の三韓を我が版圖に歸せしめ云々)に発端し、終日、断続的な調査を行った。


まずは、日本時間2016年4月24日5時、いな同日7時に再投稿をしたYouTube動画の説明文を引用する。
YouTube動画の説明文の欄における制限に抵触する寸前の文字数である。
当記事を即日で突発的に作った動機は、ここにもあろうか。
以下の冒頭にあるよう、単なる録音テストとして不思議な論文を音読し、説明文に簡単なコメントを書く程度のノリであったが、結果は一日中に渡って断続的に悩まされたわけである。
要は、あまり詳しくない分野のにわか仕込みだが、そう思うほどにネット上の「我、記紀を読みたり!」という感じの人々は、どれほどに読了していようか。

今後の録音動画のためのテストとして、とある論文の一部を音読した。

まず、冒頭にいう「兩國」とは、当時における英露(イギリス帝国・ロシア帝国)を指す。
キリスト教の一宗派の代表を女王や帝王が務めている政教一致の国家(エリザベス女王とプロテスタント・ピョートル大帝と正教会)が、国力を得て、ほかの欧州諸国よりも一国の歴史を長くしている状態を示す。
諸外国でも政教一致の姿勢による国家の長命と富強が明白であるから、いわんや先史より祭政一致の日本をや、と比較文化論で力説する。

ここで飛び出る、彼らにとっての史実の開陳が興味深い。
仏教伝来以前の日本は、純粋な神道(レトロニムで古神道)によって強大な国力を持っていたとして、「高麗・百済・新羅の三韓を我が版圖に歸せしめ」たとか、一部中国大陸から朝貢を上げさせたという事績を挙げている(音声、版圖を"はんず"、朝貢を"ちょうぐ"と呉音で誤読した)。
日本書紀あたりに対応する情報があると思われるが、今の日本人は当然目を丸くしよう。
記紀(古事記・日本書紀)は主に編纂当時の伝承を集めた歴史書であり、創作でなくとも誇張や誤伝はあろう(同様に異国側の記録を参照しても事実に異なる場合もある)。
現代では珍説である上、歴史学的根拠には欠けるとしても、日本書紀の金文ならば江戸時代の国学や明治以後の国体思想では通説と成り得る(江戸時代の国学者は合理的な研究をしていたのにこの辺は記紀という「聖典」や日本の史料を偏重したようである)。

そう思うと、明治より戦前まで、学校教育で教授する内容が気になる。
当時のナショナリズムでは、当然日本神話も教えたはずだが、歴史教育はどうであったか。
現代では眉唾話に思える先の三韓(ここでは高麗が百済・新羅を指すそう)の併合・呉(三国時代?)や粛慎からの貢物の徴収など、史実として子供たちに教えていたか。
百済・新羅というと白村江の戦いのころであろうが、高麗が百済・新羅と同時に存在した時代はない(高句麗との混同か高句麗に相当する国を単に高麗と呼んだだけか)。
白村江ほか、秀吉の朝鮮出征も、現代では日本側の敗戦と扱われるが、この点もどう教えられたか。
また、西洋などの世界史を、学校教育ではどう教えたか、あるいは隠したか。
広く教える場合は、先のイギリス・ロシアのような肯定的なケースのほか、残虐にして国家の興亡が著しい西洋史・中国史を示して日本との対比と自国の賛美をさせる目的もあろう。

現代の日本では、中国や韓国が歴史の誇張や捏造を含む反日教育を行っているとの情報がネット上で伝播している。
社会主義・国家主義や、それに類する思想が強い今の中韓がああするように、当時の日本も中韓ほど攻撃的ではないにせよ、日本の精神性を重んじる上で方向性を誤っていたようである。
島国の祖霊を重んじる日本がわざわざ、島でも何でもない遠い国を占領していたとなれば、本来の精神性に反する。
明治以降の帝国主義の思想においてはいくら他国の支配を行っても、当時の国体思想(真の国体とは名を同じくして実が異なる)の理念には反しない。
だが、和という実存としての日本を思えば、その往古に遠い国から貢物を得ても占領する発想はあり得ない。
古来に類似の事象があったとしてどう動いても、「版圖に歸せしめ」はしなかったであろう。

日本の「神」とは、日本の森羅万象と日本人の祖先などの精霊であろうが、由縁のない土地を併合しては齟齬が生じる。
当時の朝鮮半島も神道に似た自然崇拝と先祖崇拝(巫道)があって日本が各地の神々の共存を認めたよう、朝鮮にも同じ領域で不可能ではないかもしれないが、結局は日本の神道の精神性は古来から現在まで日本列島にのみ収まる。
日本に渡来人が溶け込んだ事実まではよいが、日本人から遠い土地を取り込めば神道に相違する。
対して日本仏教では、日本からインドまでの諸天善神を尊び、拡げれば世界中の神々に神としての価値を認める。

動画投稿後に参照
日本書紀 巻第七~十一
古事記 中巻
広開土王碑(好太王碑) 而倭以辛卯年來渡海破百殘隨破新羅以爲臣民



調査の折、少し話題を外れ、とあるブログを閲覧していると、たまたま本日4月24日投稿の最新記事に「水上交通が盛んになり、交易圏が広がり、遠く朝鮮半島までが大国主神の版図にはいった様子が、古事記に描かれています。」という文章を見かけた。
原文を引用せずに「古事記に書かれてっぞ!」と示されても、ますます情報が乱れてしまうし、大事な聖典の権威のため、「清明(きよくあきらか)」に教えてほしい。
言わば、示して示さないようなものではないか?
その記事においては枝葉末節の話題かもしれないが、私は残念に思っている。

例えば、どこかのお寺の坊さんが「○○上人はこう言いました~、○○聖人の書に書いてあります~」と趣旨のみを書いている度に、私は苛立ちを覚える。
同じ仏教でも、日蓮正宗や創価学会は彼らの発刊している「御書」などのページ数を示したり、キリスト教などでも「〇〇伝、○○による福音書」の何章の何節と示すものだが、なぜこういった姿勢を持たない人がいるか。
とはいえ、彼らが嘘をつくつもりで言っているわけではないのであろうし、たとえ何らかの誇張や脚色や恣意的な想像が混ざったとしても、まあ・・・

というわけで、表題の事績に関して記紀(古事記・日本書紀)および異国の記録の原文や訓読文などを引用する。
至極残念ながら、先の「朝鮮半島が大国主神の版図に入った(三韓に相当する国家を版図に帰せしめた)」としている文言は見当たらなかった(もし古事記に載っているならば上巻にあろう)。
古事記は日本語版Wikisourceに載る戦前発行の注釈付きの本、日本書紀はとあるHPの訓読文+解説(一部活字の本の文章か?)が見やすいが、あとはネット上に全文を通読しやすくしたありがたいページはない。
古事記Wikisource訓読文っぽい文章をより逐語的に変えたり、日本書紀HP訓読文の環境依存文字の便宜表記などを訂正するなど、当方で適宜改良を施した。



古事記 中卷


故備如教覺。整軍雙船。度幸之時。海原之魚。不問大小。悉負御船而渡。爾順風大起。御船從浪。故其御船之波瀾。押騰新羅之國。既到半國。於是其國王畏惶奏言。自今以後。隨天皇命而。爲御馬甘。毎年雙船。不乾船腹。不乾䑨檝。共與天地。無退仕奉。故是以新羅國者。定御馬甘。百濟國者。定渡屯家。爾以其御杖。衝立新羅國主之門。即以墨江大神之荒御魂。爲國守神而。祭鎭。還渡也。

かれ備さに教へ覺したまへる如くに、軍を整へ、船雙めて、度り幸でます時に、海原の魚ども、大き小さきを問はず、悉に御船を負ひて渡りき。ここに順風いたく起り、御船浪のまにまにゆきつ。かれ其の御船の波瀾、新羅の國に押し騰りて、既に國半まで到りき。ここにその國主、畏ぢ惶みて奏し言さく、「今よ後、天皇の命のまにまに、御馬甘として、年の毎に船雙めて船腹乾さず、柂檝(䑨檝)乾さず、天地のむた、退きなく仕へ奉らむ」とまをしき。かれここを以ちて、新羅の國をば、御馬甘と定めたまひ、百濟の國をば、渡の屯家と定めたまひき。ここにその御杖を新羅の國主の門に衝き立てたまひ、すなはち墨江の大神の荒御魂を、國守ります神と祭り鎭めて還り渡りたまひき。



日本書紀 巻第九


冬十月己亥朔辛丑、從和珥津發之。時飛廉起風、陽侯舉浪、海中大魚、悉浮扶船。則大風順吹、帆舶隨波。不勞㯭楫、便到新羅。時隨船潮浪、遠逮國中。卽知、天神地祇悉助歟。新羅王、於是、戰戰慄慄厝身無所。則集諸人曰、新羅之建國以來、未嘗聞海水凌國。若天運盡之、國爲海乎。是言未訖間、船師滿海、旌旗耀日。鼓吹起聲、山川悉振。新羅王遙望以爲、非常之兵、將滅己國。讋焉失志。乃今醒之曰、吾聞、東有神國。謂日本。亦有聖王。謂天皇。必其國之神兵也。豈可舉兵以距乎、卽素旆而自服。素組以面縛。封圖籍、降於王船之前。因以、叩頭之曰、從今以後、長與乾坤、伏爲飼部。其不乾船柂、而春秋獻馬梳及馬鞭。復不煩海遠、以毎年貢男女之調。則重誓之曰、非東日更出西、且除阿利那禮河返以之逆流、及河石昇爲星辰、而殊闕春秋之朝、怠廢梳鞭之貢、天神地祇、共討焉。時或曰、欲誅新羅王。於是、皇后曰、初承神教、將授金銀之國。又號令三軍曰、勿殺自服。今既獲財國。亦人自降服。殺之不祥、乃解其縛爲飼部。遂入其國中、封重寶府庫、收圖籍文書。卽以皇后所杖矛、樹於新羅王門、爲後葉之印。故其矛今猶樹于新羅王之門也。爰新羅王波沙寐錦、卽以微叱己知波珍干岐爲質、仍齎金銀彩色及綾・羅・縑絹、載于八十艘船、令從官軍。是以、新羅王、常以八十船之調貢于日本國、其是之縁也。於是、高麗・百濟二國王、聞新羅收圖籍、降於日本國、密令伺其軍勢。則知不可勝、自來于營外、叩頭而款曰、從今以後、永稱西蕃、不絶朝貢。故因以、定內官家屯倉。是所謂之三韓也。皇后從新羅還之。

冬十月の己亥の朔辛丑(西暦200年10月3日とされる)に、和珥津より發ちたまふ。時に飛廉は風を起し、陽侯は浪を擧げて、海の中の大魚、悉に浮びて船を扶く。則ち大きなる風順に吹きて、帆舶波に隨ふ。㯭(木+慮)楫を勞かずして、便ち新羅に到る。時に隨船潮浪、遠く國の中に逮ぶ。即ち知る、天神地祇の悉に助けたまふか。新羅の王、是に、戰戰慄慄きて厝(厂+昔)身無所。則ち諸人を集へて曰く、「新羅の國を建てしより以來、未だ甞も海水の國に凌ることを聞かず。若し天運盡きて、國、海と爲らむとするか。」是の言未だ訖らざる間に、船師海に滿ちて、旌旗日に耀く。鼓吹聲起して、山川悉に振ふ。新羅の王遥に望りて以爲へらく、非常の兵、將に己が國を滅さむとすと。讋(龍+言)ぢて志失ひぬ。乃今醒めて曰く、「吾聞く、東に神國有り。日本と謂ふ。亦聖王有り。天皇と謂ふ。必ず其の國の神兵ならむ。豈兵を擧げて距くべけむや。」即ち素旆あげて自ら服ひぬ。素組して面縛る。圖籍を封めて、王船の前に降す。因りて、叩頭みて曰す、「今より以後、長く乾坤に與しく、伏ひて飼部と爲らむ。其れ船柂(木+ノ一也)を乾さずして、春秋に馬梳及び馬鞭を獻らむ。復海の遠きに煩かずして、年毎に男女の調を貢らむ。」則ち重ねて誓ひて曰す、「東にいづる日の、更に西に出づるに非ずは、且阿利那禮河の返りて逆に流れ、河の石の昇りて星辰と爲るに及るを除きて、殊に春秋の朝を闕き、怠りて梳と鞭との貢を廢めば、天神地祇、共に討へたまへ。」時に或の曰く、「新羅の王を誅さむ。」是に、皇后の曰はく、「初め神の敎を承りて、將に金銀の國を授けむとす。又三軍に號令して曰ひしく、『自ら服はむをばな殺しそ。』今既に財の國を獲つ。亦人自づから降ひ服ひぬ。殺すは不祥し。」乃ち其の縛を解きて飼部としたまふ。遂に其の國の中に入りまして、重寶の府庫を封め、圖籍文書を收む。即ち皇后の所杖ける矛を以て、新羅の王の門に樹て、後葉の印としたまふ。かれ、其の矛、今猶新羅の王の門に樹てり。爰に新羅の王波沙寐錦、即ち微叱己知波珍干岐を以て質として、仍りて金銀彩色及び綾・羅・縑(糸+兼)絹を齎して、八十艘の船に載れて、官軍に從はしむ。是を以て、新羅の王、常に八十船の調を以て日本國に貢る。其れ是の縁なり。是に、高麗、百濟、二の國の王、新羅の圖籍を收めて日本國に降りぬと聞きて、密に其の軍勢を伺しむ。則ち勝つまじきことを知りて、自ら營の外に來て、叩頭みて款して曰す、「今より以後は、永く西蕃と稱ひつつ、朝貢を絶たじ。」かれ、因りて、内官家屯倉を定む。是所謂三韓なり。皇后、新羅より還りたまふ。



北史 卷九十四


新羅、百濟皆以倭爲大國、多珍物、並仰之、恆通使往來。

(横野真史・拙くも訓ず)新羅・百濟は皆な倭を以て大國と爲す、珍物多く、並びてこれを仰ぎ、恆に通使は往来す。

※「隋書」の八十一巻(そのうち倭國の項、通称: 倭国伝)にもほぼ同文が載るが、その原典表記の倭は「俀(イ+妥)と異体字で表記されるほか、「並仰之」の部分は「並敬仰之」とある。ほかの引用に「殊域周咨錄」「蓬窗日錄」などを確認した。



広開土王碑(好太王碑) 第一面 (元の碑文は欠損箇所がある)



百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百殘隨破新羅以爲臣民

百殘(百済)・新羅は旧、是(高句麗の)属民にして朝貢す。而るに、倭、辛卯年(西暦391年とされる)を以て渡海し、百殘を破りて随へ、新羅をも破り、以て臣民と爲す。



上掲の史料群には異説や異本もあるため、全容を網羅していない旨を留意されたい。
こういった史料群を見て私から出せる結論は、動画説明文の「日本の『神』とは、日本の森羅万象と日本人の祖先などの精霊であろうが、由縁のない土地を併合しては齟齬が生じる」という見地から「古来に類似の事象があったとしてどう動いても、『版圖に歸せしめ』はしなかったであろう」と割り出した見解となり、これ以外に帰結するところはない。
朝鮮半島の国家を降伏させて貢物を受ける、といった結果になるとも、明治期の論文にいう「我が版圖に歸せしめ」や、某ブログ最新記事の「大国主神の版図にはいった様子が古事記に描かれ」などといった見解は、彼らの誤読か拡大解釈、中には単なる受け売りもあろう。
もし、本当に彼らのように読み取れる記述があらば是非、金文の提示を請う。

日本書紀巻第九における神功皇后の事跡の記述にも、新羅国の降伏後に高麗(高句麗)と百済の王らが「これから我々は西蕃と名乗って(倭国に)朝貢を捧げて絶やしません」とあるよう、あくまでも「(日本に対する)西の蕃(蛮族・異民族・異国)」として降伏したに過ぎない。
「三韓征伐」なる事績の真偽を問わず、古来の日本人が朝鮮半島の国家をどう見ようとも、かの半島は異なる国土(属国)として扱う選択が道理でなかろうか、故に乃往に日本の国土とせじ。
記紀においては、そう読み取ることしかできないが、一方の広開土王碑など異国の立場では、同一の事象に対する見解や伝達内容が異なる場合もあろうから、どうにも断言できない。



後記、学者志望(肩書に限らない)ならば、このようにして突破すべき試練に直面する。
調査するスキル自体は元々備わっているものの、記紀に関しては難解そうな先入観から敬遠していた。
当初の想定を超過した時間がかかったものの、今回の調査によって耐性が得られたならば、それもよしとできる。
だがまあ、「我、記紀を読みたり!」という学者さんたちが、もっと惜しまずに知識を披瀝し、情報を発信してくれれば、後に学ぶ者たちの助力となろうが、みだりに「こう書いてある!」と金文をチラつかせ、焦(じ)らせるだけでは消化が悪かろう。
当記事の主目的は、文章の解釈の正誤の如何よりも、研鑽の上で文章を精査する姿勢に念を押す(結果よりも過程を重視する意味で前回記事に似た旨を綴る)。
願わくは、速やかに先人の智を遍からしめ、以て真の和に(於)再興のあらんことを。


2016年4月16日土曜日

勇躍の足、自のずから長安に到る、頓に天竺へ、亦た羅馬も近し。

自然道歌(じねんどうか)


勇躍足自到長安、頓天竺羅馬亦近。(勇躍の足、自のずから長安に到る、頓に天竺へ、亦た羅馬も近し)
これ道の在り方なり、意義はいかなるぞ(是云道理、意義者何)。
暫く此の義を語らんと欲す。



平成二十八年三月三十日の文


各々の努力の中に、結果として勝利もあろう。
スポーツとは、勝ち負けの競争や賭け事の世界ではない。
そのような修羅の道であってはならないし、臨む者達も勝ち負けに縛られてプレーすべきではない。
各々の努力による成長こそを尊重すべきである。
勝利と栄光と名声と報酬などは、その「印」、オマケとなる。

正しく道を行く人たちは、勝敗という「印」を等閑視しないため、努力を客観視する上で重視こそすれ、絶対視もしない。
勝敗を絶対視すると、勝利後に相手を見下して「屁のツッパリにもならない」などと、人の健闘を軽んじて冷徹な言葉を吐き得る。
諸々のファン共(ファンに似た何者)が目を瞋らして相手に「負けろ!」と呪い叫ぶこと、悪鬼修羅さながらであり、これが外道たる修羅の道である。
自分が応援するチーム(地域などに縛られる)の対戦相手か、自分の憎むチームに、子供でもしないその罵声を口にし、あるいは軽蔑を心に起こす。
是くの如き修羅の気質がプレーする者に生じるか、ファンの目を気にすれば、予て勝ち負けを案じ、勝った負けたと一喜一憂してその時その時に苦しむ。

正しく道を行く人たちは、負けたときに道を歩み足りないと省みる。
幸いにも勝ち続ける者は、どんな志でも、ただ勝ったのみに道を止めずある。
私は「自己を修養する道」をスポーツには求めないが、これは学問などの道の全てが同様である。
道の途中でお金や名誉を得ることは単なる「印」、オマケであり、拾得物に過ぎない。
今の人は成功主義・即物的であるから、本末転倒に走ってしまう。

私の本心では、スポーツに関わる人、特にファン全般を蔑視しているが、スポーツ自体は修養の道の一つとして尊重はできる。
また、スポーツを修養の本道として真剣に挑む者達も尊重できるが、スポーツ自体の賞賛はできない。
一元ではない双方の尊さを一概に分けて語れない。

勝てない人が卑しい根性で唱えるところの精神論だ、と嫌ってはならない。
正しい道を示す指針とせんが為に説く。
そして外道を具体的に指弾する。
勝敗に拘泥しないばかりか、そもそも勝敗を知らず孤高に道を行く私は、無我夢中に飽くなき探求の精を出す。
世間の迷いを離れた徳とはこれなり。
楽しく道を行って道を外れず、気付けば知らぬうちに素晴らしい場所に到っていることがある、しかしゴールを定めず。

勇躍の足、自のずから長安に到る、頓に天竺へ、亦た羅馬も近し。これが道のあり方か。



文法などの釈

「羅馬亦近」は「復近羅馬(復た羅馬も近し)」としたかったが、類似の文法の例を見つけられなかったためやめた。
漢文の読み下し方や助詞のつけ方には、いくらか遊びがあるとしても、個人的には他の明確な例が見られないと自己流の類推による誤りがありそうで不安が残る。

なお、羅馬"Luoma"は都市のローマを指している。
ローマ帝国という広い名称を、古い中国で「大秦 "Daqin"」などと呼んだようである。
日本でも通じる「羅馬」は、当然日本の音読みでは「ラバ」とか「ラマ」と読むほかないが、このような発音不相応の単語をわざわざローマの当て字として用いている。
中国のピンイン(拼音)で"Luo ma"と、日本のローマの発音に似るし、実際にこの音写・表音は、宋以降の中国で作られたと思われ、日本はなぜか「羅馬」を当て字として借りた(ただし"ラうま"と重箱読みをしてこれを仮名遣い変化で"ろうま"と読むことは不可能でない)。
中国式の音写語句を借りたから、「欧羅巴(ヨーロッパ)」の日本音読み(オウラハ)にしても、中国語の漢字の発音(Ou luo baか口唇破裂音のBP互換でOu luo pa)と比べて当然、原語(英語・ポルトガル語・オランダ語いずれも)の発音に似つかない。
※オウラハとか後述のエイキチリにしても、小学生の時の記憶を思い出した。

一方、同じ「羅」の文字を用いる「羅甸」はラテンの音写・表音となるが、このように、ローマはラテン語を使った地域だが、日本は「羅」の文字を用いるに当たって統一させていない。
先の通り、中国での「羅」は"Luo"と発音されるため、ラテン"Latin"の音写・表音では「羅」を使わず「拉丁"La ding (DT互換でLa ting)"」とするなど、「拉"La"」によっていくつかの音写を表す(日本でもこの文字でラテンの音写をする場合がある)。

「羅馬」のほかに、日本で不相応となる中国音写語句にはイギリスの「英」があり、これも中国では宋以降大概が今のピンインのように"Ying"と発音したろうが、日本では"エイ (呉音はei you互換で"ヨウ・字音ヤウ")"なのだから、なぜ「英吉利・英国」という借り方をしたか不明である。
中国のフランスは「法蘭西」、対する日本は「仏蘭西」と、仏法フォファの違いを取ったように、「英」は何かしら順当な発音の字に変えるべきであった。
「吉」の文字も、日本では上古音・中古音にある入声音の尾子音"t"を踏襲した"キチ・キツ"という読み方をするから「エイキチリ・エイキツリ」というおかしな読み方しか出来ず、尾子音"t"が"l"に変わった朝鮮語ならばまだ「ヨンギルリィ "Yeong gil ri"」と、巻き舌発音でごまかせる(もっともEnglish Englandは見ての通り"r"を含まないし"l"に巻き舌・そり舌の発音をしない)。
清ほどの中国での発音は「吉"ji"」の発音はjとgの互換性から"gi"と発していたろうから、「英吉利」を音写した時代の人々は「インギリ、インギーリー(Ying gi li)」と発音したか。
「インギーリー」がイングリッシュ"English"に擬した音かイングランド"England"に擬した音か不明だが、後者の場合は現代で「英格蘭 (Ying ge lan)」と音写している。



起草日: 20160331

そういえば1年前のこの日この時期には、散歩関連の意気込みを書いたような記事がある。
この記事は「勇躍の足」だとか、旅みたいなテーマの詩を書いているものの、これは単に物事に取り組む姿勢を旅になぞらえた比喩である。
それで、今春の散歩はといえば、特に計画も組まず、既存の計画の実行もせず、ただゴミ出し・自販機通いと同時に公園の桜の様子見を繰り返し行っているのみである。
来月(5月)頭にも今月(4月)分の日記メモまとめ記事を反映するから、そこでも確認されたいが、今年の桜の様子見を行った日は3月17・24・29日、4月1・4・5・14日である。



追記: 2018年7月

2点ほど、追記事項がある。
①「芸術や学問などで道を行く志のある人は、分野や業種などの区分(概念・名称)にくくられず、志のままに取捨選択をできる。例えば、旅においていくらか地図上の地名や道程を認知していても、実際に自分が道を行く時、未知の場所であったり、未開拓の土地や状態の悪い道(=普通の道でない)に当たることもあろうが、進む意志がある時はそれについて嫌悪せず、可能な限りに進む。そうして初めて地図に名の乗る地名や記載される地形や道がある。同じように、自分よりも先に同じことをした人がいなくとも芸術や学問で意欲の強い者は分野や業種などの区分の有無を過度に鑑みる必要が無い。自分の行動の結果によって新たな区分も生じるであろう」

つまり、長安・天竺・羅馬という地名は実在してもしなくても、特定の由緒で意味のある名として発生する。
彼は、日本にいながら・非ユーラシア大陸にいながら、長安・天竺・羅馬を踏破した者となり、更に優れた場所・優れているとさえ表現できない場所にも行くことができる。
地名やそのイメージといった、先の認知は必要・不可欠であろうが、優れた冒険家・探検家にとって、途中(途上)から意味をなさない区分となる。
彼は、何らかの分野の先駆者となるか、他人たちに見られることで先駆者とみなされる。
彼にとって、経由地や到達地は長安・天竺・羅馬とも、天国とも、地獄とも、他の場所とも、名付けることができる。
何らかの分野がその名称と共に新しく成り立つと、じきに合理化→固着・形骸化するので、止揚する者もまた現れるが、これは音楽でも芸術でも学問でも宗教でも、頻繁に発生する現象である。

②羅馬、ローマということで、私がローマの言語たるラテン語で歌を作ったことをここに記す。
http://masashi.doorblog.jp/archives/52087869.html

①の中に記された話題とも関連する。
今の私は、「日本および世界に未だなされないか、あまりなされなかったこと」を、意欲に基づいて行う。
精神的に不備がある今は、常にそうなるわけでないといえど、可能な限りに行うことを期す。